4-⑵ さて、問題。ストーカーです!

   息を切らせて走る。目的地は、二人が良く会ったあの駅。あそこから二人の関係が始まったと言っても過言ではない、始まりの土地だ。
   その始まりの土地に、あの人を呼び出していた、大事な事を伝える為だ。胸の鼓動がうるさいのは、走っているからだけではない。
   足を、止める。駅の近くまで着いたのだ。目線を動かし、そして見つけた……あの人だ。ちゃんと来てくれたのだ。相手はこちらに背中を向けていて、ぼくの存在にまだ気が付いていない。息を深く吸い込み、そして吐き出した。
   心が随分落ち着いた。よし、行こう。そう思って相手の元へ向かおうとした時、不意に彼女が振り向いた。途端、一度落ち着いた筈のぼくの心臓は暴走する。汗が流れ、身体を上手く動かせない。
   そんなぼくの元へ、彼女が小走りでやって来る。
   「来てくれたんだね」
   「い、いやまあ、呼び出したのはこっちだし。そりゃ来るよ」
   「でも嬉しい」
   「う」
   言葉が続かず、顔が熱くなる。彼女を見ると、何時ものように微笑んでいた。その顔を見て、少し勇気が出た。よし。もう一度深呼吸。よし、言えるぞ。
   「あ、あのさ」
   「うん……」
   彼女の目も緊張しているように見えた。ドキドキが収まらないのは、お互いなのだ。
   「ぼく、きみの事が……」
 
   ふと、気が付くと十八時過ぎだった。おっと、もう約束した時間じゃないか。危ない危ない。残り数ページだけ軽く目を通してから、手に持っていた本を置き、荷物を片付け始める。
それにしても、昔から勉強漬けで、漫画なんてあまり読まなかったけど、こんなにも時間を忘れてしまうものなのだな。これまでのクラスメイト達が夢中になっていたのも頷ける。
   自分の荷物をまとめ終えたので、コップと漫画を持って、個室から出る。それぞれ、専用の返却棚へ。そのままレジへと向かう。随分長い間居た気もするが、会計は千円だった。あれだけの漫画を読んだ事を考えたら、安いものだ。読みかけの続きも気になるし、また来よう。
   エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。時間を確認すると、十七分だった。なんだ、まだ余裕があるな。
西院駅正面、西院アフレ。飲食店や本屋、先ほどまでぼくが居たネットカフェや歯医者なんかもある、実に便利な建物。今日ぼくは、ここで人と会う約束をしている。
 一階に到着。すると、そこにはスマホを眺めている見知った顔があった。待ち合わせ時間まであと十分以上あるのに、早い到着だ。
   「吉留、随分早いな」
   肩を叩くと、振り返る笑顔。
   「おう、嬉しくてな、つい早く来てしまった」
   「何だよそりゃ。とりあえず店入るか」
   「そだな!」
  二人連れ立って階段を降りて、地下へ向かう。アフレの地下には居酒屋が充実している。そこから適当な店を選び、席に座って、適当に飲み物を選んだ。
   「おっ、来たぞ。はやいなー」
   店員ににこにこしながらお礼を言い、グラスを受け取る吉留。コイツは本当に愛想が良いな。少し、見習いたい点ではあるかもしれない。軽く会釈しながら、グラスを受け取る。
 「そいじゃ、なんていうか、色々かんぱい」
   「乾杯」
 カツン、と気持ちのいいグラスの音。思えば、友達同士でこういう店に来るのは初めてだ。喉を通らせた飲み物も、とても美味しく感じた。
   「っぷはー!美味いな!いやー、しかしこうやって衛と居酒屋来れるなんてな。これが大人になるって事だな」
   「飲んでるもんはウーロン茶だけどな」
   吉留はオレンジジュース。ぼくらはまだ、十八歳なのだ。
   「まーまー、雰囲気が大事なのよ」
   「そうかねぇ。……まあ、そうかもな。それにしても、お前その髪何だよ」
 「良いだろー。え、似合わない?」
   「いや、似合う似合わないっていうか……」
   素直に言うと「驚いた」が正しい。久しぶりに会う吉留の髪色は、日本人が天然で持つにはあるまじき色だった。
   「まぁさ、ちょっとテンション上がっちゃったのよ。せっかくお堅い校則からも解放されたしな。むふ」
   「なるほどな。まあ、でもそっちの方が吉留らしいと言えば吉留らしいかもな」
   「ヤンキーじゃないぞ!」
 「言ってねぇよ。……製菓学校はどうよ」
 「良い感じ!授業は楽しいし、みんなお菓子の事真剣に考えてて、良い環境だわ」
   「そうか。それは良かったな」
   「おう、今度美味い菓子作ってやるよ。衛の方はどうなんだ?」
   「ああ」軽く目を閉じ、脳裏に光景を浮かべる「楽しいぞ。大学生になって良かった」
   「そうか!良かったなぁ。でも、衛が高槻大学に行ったのは予想外だったな。てっきり国公立志望だと思ってたから。聞くの今更かもしれんが、何で高槻にしたんだ?」
   「そうだな。とりあえず、料理頼まないか」
   「おいおい、はぐらかすなよ。あ、店員さん。刺身盛り合わせとから揚げと焼きおにぎり二つで」
   「決めるの早いな」
    「あ、今ので良かった?衛の食べたそうなものも勝手にテレパシーで受け取ったんだが」
 「そりゃどうも。まあ、文句はないよ。そんで、はぐらかさないよ」
   「じゃあ、聞かせてくれよ」
   「そうだな」目を閉じる。今度はさっきより少し長めに。「……夢を見つける為に、と。あと、ぼくの大事なものがそこにあるからね」
 夢は、まだ見つかっていない。
 でも、それでも今は良いんだ。大学に行っても、生きていても良いんだと知れた。大事なものが、教えてくれた。
   ……なんてね。
   吉留が何故か静かになったのに気が付き、顔を上げて、ぎょっとした。
奴は、何というかものすごくキラキラとした目をしていた。
   「な、なんだよ……」
   「ま、衛うー!良かった!お前が、お前、良かった!」
   「だからなんだよ……」
   「いやだってさ、お前高校の時に、夢が持てないから大学に行く理由がイマイチない、みたいな感じですげぇ暗い顔してたからさ、大丈夫かなって心配してたんだけどさ、ちゃんと理由を見つけられたんだなって……おま……よかっ良かったなぁ!」
   「え、ちょ、なんでお前が半泣きなんだよ!」
   「だってさぁ……だってさぁ……」
   「……吉留」
   「すいませーん、唐揚げお持ちしました」
   「あ、ありがとうございます。わーい」
   「復活早いなおい!」
   「いやいや、感動が冷めた訳じゃないぞ?それとこれとは別で美味いもん味わわないといけないだろ。さ、お前もお祝いがてら食え食え!」
   笑顔でそう言って、唐揚げを勧めてくる吉留。……何というか、こいつには敵わないな。
   でも、こいつと出会えていて良かったな。そう、思えた。
   そうして食べて飲んで話して一時間程経った頃。
   目の前の男は、すっかり酔っ払いのテンションとなっていた。
   「はい!次のドリンク入ります、いえーい。……ん?おいおい、衛くん、飲みが進んでないんじゃないのか?ここらでいっちょバーンと頼んでみようぜ」
   「いや、頼まねぇから」
   「なんだよー、衛ってばそういうトコ真面目なんだからー、もー」
   「いや、なんでだよ。なんで酔ってんだよ。お前が飲んでるもの、最初っから変わらずソフトドリンクだろ」
   雰囲気酔いって奴なのか。
   ハイテンションで店員を呼んだ吉留は、お冷を二つ頼んだ。お冷かよ。
   「まま……。テンションも上がってきたところで、ここらで暴露大会にでも移りますか。お前好きな女子いんのかよ」
   「修学旅行かよ」
   まあ、糞真面目なぼくらの高校の修学旅行では。こんな会話など無かったのだけれど。
   「じゃあ、質問を変えよう。好きな女子の事が好きなあまりにやらかしちゃった事言えよ」
   もはや、質問ではなくなっている。それは、命令だ。
   「やらかしちゃった事……つまりそれは、放課後誰もいない教室に忍び込んでリコーダーを……とかいうやつか。例えばの話だけどな」
   「そうだな、そんな感じ。果たして本当に例えばの話なのかな。衛ってば、真面目に見えて実はすごい事やらかしてそうだもんな。いや、真面目だからこそか。普段の厳格な生活で抑えつけられた禁忌のリビドーが暴発とかそんな感じの」
   「はは、何だよそれ。失礼な奴だな、お前は」
   「貶している訳じゃないぞ。責めている訳でもない。純真たる感想だ」
   「そうだな。でもその理論で言えば、あの学校にはそういった犯罪予備軍が五万といそうだけどな」
   「あんまりクラスメイイトを貶すもんじゃない」
   「貶してはない。お前の理論を当てはめただけで、つまり感想なんだろ?」
   「ああ、そうだな。自分から言い始めて何だが、難しいラインだな」
   「ラインなんて色々言葉をこねくり回してりゃ分かんなくなるもんなんだ。ところで、人に聞くんなら自分から言えよ」
   「ん?ああ、やらかした事な」
   記憶を辿っているのか、黙ったまま上の方を見つめている。
   軽いノリで聞き返したが、重いものが返ってきたらどうしよう。
   先の理論とはまた違うが、普段明るい男だからこそ、頭の制御装置が外れてしまった時に本当に陰湿な事をやらかすかもしれない。聞くのが怖くなってきた。
   「あー、あれだ。小学生の時の話でも良いか」
   「随分若い記憶だな。別に構わないけど」
   「俺はさ、隣の席の子が好きだったんだ。名前はよっちゃん。今でも覚えてる、三つ編みが似合ってた」
   「ほう」
   「俺はどうにかしてよっちゃんとお近づきになれないものか、と考えていた。でも、小学生の俺は本当にシャイだった」
   「今からじゃ想像つかないな」
   「今も実は結構シャイなんだぜ。とにかく、シャイだった俺は念願の隣の席となれても、ロクに会話も出来ず、悶々とした毎日を過ごしていた」
   そこで、吉留は水を飲む。少し前に頼んだタコの唐揚げが届いた。
   「……このエピソードに重要なポイントは三つある。そして、このエピソードに大事なアイテムがある。それが、消しゴムだ
   「まず、一つ目のポイント。授業中によっちゃんが消しゴムを落とした。よっちゃんは、あ、て小さな声を出した。その声がまた可愛かったんだ
   「消しゴムはころころころころっと踊り回って、俺の足元までやって来た。驚きだろ?シャイな俺を見かねて手助けしてくれたかのように見えたね。
   「俺はほとんど反射的にソイツを拾った。そう、拾う時は反射的だったんだ。だが、拾った途端に心臓が暴れ始めた。コレはよっちゃんの消しゴムじゃないか。ああ、どうしよう。どうしよう?
   「まあ、どうしようなんて言っても、その場でどうしようもない。あまりに長く持っていても怪しい。俺は本当に普通にその消しゴムを“はい”って言ってよっちゃんに渡した。シャイだったから声は小さかったかもしれんけど
   「そしたらよっちゃんは“ありがとう”って言って消しゴムを受け取った。ほとんど初めてと言ってもいい、俺とよっちゃんの会話だ。本当に消しゴムには感謝するべきなんだ
   「だけど、だ。その時に俺は嬉しいながらもどこか違和感を覚えていた。俺は今、何にドキドキしていた?可愛いよっちゃんとの会話?それとも、よっちゃんの消しゴム……?
   「そう思った瞬間に俺は、先ほど自分が抱いていた感情を思い出した。どうしよう?って思った時だ。俺は、その時、よっちゃんの消しゴムを口に入れたい衝動に駆られていたんだ。
   「そっからの時間、授業中いっぱいずっと俺は悩んでいた。ぐるぐる悩んでいた。どうして俺は消しゴムを口に入れたいだなんて思ったんだろう。よっちゃんが驚く姿を見たかったから?よっちゃんの事が好きだから?
   「授業中いっぱいって言ったけど、それどころじゃないな。その日ずっと、布団の中でも、次の日も、その次の日も、家でも、学校でも、ずっとその事を考えていた。
   「そんな中、次のポイントが訪れた。俺は学校に筆箱を持ってくるのを忘れたんだ。一時間目の算数の時にその事に気が付いたけど、シャイな俺は先生に言えない。
   「そしたら、よっちゃんが話しかけてきた。“筆箱忘れたの?”“う、うん”“じゃあ、貸したげる”よっちゃんは机と椅子とを近づけてきた。好きな子にそんな事されたらドキドキするだろ?
   「俺はもう本当にドキドキしていた。よっちゃんがいつもより近い。しかも、俺の為に近づいてくれる。その時は小学生ながら、人生で一番幸せな時なんじゃないかって思ってた。
   「でもそのドキドキは、次のよっちゃんの言動でブレる。“あ、消しゴム一個しか無いや。鉛筆はいっぱいあるから貸せるのに。ごめんね、二人で一緒に使おう”そう言って俺らの真ん中にソレを置いたんだ。
   「俺の心の底が、あの時の何かを思い出したように反応した。消しゴムだ。あの時口に入れようとした消しゴムだ。この頃ずっと頭の中にあった、あの消しゴムだ。ここにある。
   「とても使えなかった。もちろん、鉛筆の方はありがたく使っていた。でも、消しゴムはダメ。そっちの方すら見れない。俺は書き間違えないように書き間違えないようと必死だった。
   「そんな感じで、その日一日中慎重に文字を書いていた。気が気でなかった。よっちゃんが近くにいるドキドキなんて、どっかに行ってしまっていた。ただ、消しゴムの事ばかり考えていた。
   「そしてHRの時間に、鉛筆を返しながらよっちゃんにお礼を言った。よっちゃんは笑顔で受け取った。俺はというと、緊張から解放された喜びなのか手に入らなかった惜しさなのかが混ざって茫然としていた。
   「俺はその日からますます、自分が分からなくなっていた。俺は消しゴムの事が好きなのか?よっちゃんの事が好きなんじゃなかったのか?訳がわからない。こんな自分なんて嫌だ……。
   「純粋によっちゃんに片思いしてた時より遥かに悶々とした日々が始まった。俺は変態なんだろうか。どうしよう。そんな時に、最後のポイントの時がやってきた。
   「毎日悩みすぎて体調が悪くなっていた俺は、体育の先生に心配され、授業中に保健室に行くよう促された。後ろめたい気がしたから、誰の付き添いも断って、ひとりで授業を抜けた。
   「でもどこが悪い訳じゃないから保健室に行く気もなれず、当てもなく歩いて教室までやってきた。みんなは体育の授業中。誰もいない教室はすごく新鮮に思えた。
   「なんとなく、自分の席についた。最近ずっと悩んでいたから疲れたなぁ、こうやって誰もいないと、リラックスできるや、なんて思っていた。深呼吸なんかしながら。
   「そうやってぼーっとしていた時に、俺は気が付いてしまった。今、ここには俺ひとりしかいない。とすると、何をしてもバレない。横の机を見ると、見慣れた筆箱があった。
   「途端にまた、心臓がばっくんばっくんだよ。何考えてんだ。ダメだ。ダメだぞ。頭の中で自分にそう言い聞かせながら、手は筆箱へと伸びる。そうっとチャックを開ける。
   「――あった。あの消しゴムだ。俺は吐き気なのか高揚感なのか良く分からないものを口の中に巡らせた。そして、後ろを見渡して、そして、消しゴムをつまんで、素早くポケットに入れた。
   「そこには居られない気分になって、教室を飛び出したよ。そしたらすぐにチャイムが鳴って泣きそうになったな。みんなが帰ってきてしまう前にと思って保健室に飛び込んだ。」
   そこで、吉留は水を飲む。ぼくも唾を飲み込む。
   「それで……どうしたんだ?」
   「顔面真っ青だったろう俺を見て、保健の先生は仮病だなんて疑いもせずにベッドを貸してくれたよ」
   「いや、そこじゃなくて……」
   「ああ、分かってる」吉留はポケットに手を突っ込んで、そして、机の上に出した。ソレを「これの事だろ」
   ぞくっと寒気がした。
   ソレは、消しゴムだった。
   かつては可愛らしい色だったのだろう、今は黒ずんで何とも言えない色をした小さな塊となっている。
   「これ……お前……」
   「なあ、衛。これ、どう思う?」
   「どうって……」
   チラリと吉留の方を見る。再びぞくっと身体が震える。明るくて良い奴、というイメージしか無かった吉留が、とても恐ろしく見えた。顔が変わった訳じゃない。だが、目の前の男は突然、ぼくの知らぬ人間へと変貌を遂げたようであった。
   ああ。
   心を震わせながら、ぼくは思う。
   吉留だけが、こういう訳じゃない。
これは、人間が誰しも持つ心の底の表情。人の間で生きていく内に、いつしか抱えたひとりの問題。問題と向き合ってきた顔。答えを出しあぐねている心。
   吉留も、ぼくも、癒真も、みんな、そうだ。
   ぼくは、喉を鳴らして何かを飲み込む。
   「……これは、消しゴムだな」
   「いや、そこじゃなくてな」
   「ああ、分かってる。分かってるんだ……」深く、息を吐く。「……これは、お前が抱えていた問題なんだな。きっと、お前は楽しく生きながらも、この問題と共に育ってきたんだろう」
   「そうだ、な。なんでだろうな、いつか衛には話したいって思っていたんだ」
   吉留は視線をテーブルに這わせる。その先を追う。消しゴムではない。随分前に届いたタコの唐揚げがある。もうほとんど熱はないだろう。あるのは、油ばかり。そんな唐揚げを二人して見つめる。だがこれは、視線の上にあるだけなのだ。
   「……何で消しゴムなんだろうなぁ」
   吉留が呟いた。顔を見てみたが、相変わらず奴の視線は唐揚げにある。
   「……最初はさ、本当に純粋にその子が好きだったんじゃないか。よっちゃんの事がさ。でもシャイだから、よっちゃんは手に入れられない。なら、代わりによっちゃんの所有物を手に入れよう……って感じに頭が働いてしまったとか」
   「それは何となく分かるんだ。俺も考えた時、そう思った。でも、消しゴムって意味分からなくね?例えばパンツとかさ、そんな感じのものならまだ欲求として理解できるんだけど」
   「そうか?」
   ぼくの返事が意外だったのか、吉留の視線がぼくを捉えた。ぼくは躊躇わずに続ける。
   「パンツなら欲求として整理できる、っていう問題でもないと思うんだ。好きな相手だからと言って、異性相手だからと言って、ぶつける欲求が全て性欲に繋がる訳じゃない。例えば、支配欲。嗜虐欲。ストレスの解消。経済的利益。色々あるさ。だから、女子のパンツを求めたとしても、その行動原理が性欲ではない可能性もある。“その女子のパンツを持っている”=“気になる相手の大事なモノを持っている”という支配欲に繋がるケースもあるんじゃないかな。秘密を握る快楽。その場合、別に性的な意味も兼ね備えるパンツじゃなくても良かったんだ。ただ、ソレが相手にとって大事なモノだったというだけで。だから」一度、大きく息を吸う。「お前の求めた消しゴムにしても、そういった何かしらの理由があるんだろ。ホラ、考えたら消しゴムって間違いの象徴だろ。好きな子が何かを間違えて焦ってた時に握ってきたモノを手に入れたいって考えると、何となく納得いくぞ。直接的に性欲と繋がらないからって、変じゃない。何かしらの理由はある。だから、もう悩まなくて良い」
   思うままに話すと、長くなった。
   吉留を見ると、ぼくを見たまま、固まっていた。フリーズ。
   「あー……、変な話をして悪かった」
   「いや……」
   今度はぼくが固まった。吉留は口を開くと共に、涙を零し始めたのだ。
   「……」
   「あれ?ああ、すまない……何か出てきたわ」
   「吉留……」
   「お前はすごいな。普通、そんな事言えないぜ。お前、変わってるわ。こんな居酒屋の中でパンツパンツ連呼するし」
   「そこかよ」
   「いや、冗談」ぽろぽろぽろぽろ、と涙を落としながら、吉留は少し笑った。「ありがとうな、衛」
   「……おう」
   「ところで、お前のやらかした事はなんだ?」
   「ぼくも言うのかよ」
   「そりゃそうだわ」
   「分かった、話すよ。だから、お前はとりあえず鼻水を拭け。ホラ、ティッシュ。……そうだな。ぼくにも、好きな子がいたんだ。素敵な子だよ」
 
 
   人に、呼び出された。
 
   人を、呼び出した。
 
   場所は、私が通う大学内。
 
   場所は、ぼくが通う大学内。
 
   人気はないけど、緑の景色が素敵なところ。
 
   人気はないけど、心地よい風が吹くところ。
 
   日にちは、今日。
 
   日にちは、今日。
 
   時間は、十五分後。
 
   時間は、十五分後。
 
   相手は、素敵な人。
 
   相手は、素敵な人。
 
 ◇
 もうすぐ、会える。
 
 ◆
 もうすぐ、会える。
 
 もうすぐ、会えるのだ。実際に会うのは、どれ程ぶりの事だろうか。メールも最近していなかった。だが、別に飽きただとか忘れていたとか言う訳ではない。少し、時間が必要だったのだ。随分待たせてしまったかもしれない。笑って許してくれるだろうか。
 ぼくが待つのなら気は楽なんだけどな、慣れたものだし。スマホのホームボタンを押し、時間を確認。待ち合わせまで、後十三分程。もうすぐだ。
 実は言うと、三時間ぐらい前からここにいる。いや、五時間だったかもしれない。色んな事を考えていた。考えている時間は苦痛ではなかった。普段からもずっと考えているんだ。慣れたものだ。
 心地よい風が、ぼくの身体を撫でる。今日は雨もなし、湿り気も少ない。梅雨もそろそろ明けるのだろうか。太陽も輝いている。
 と、ぼくの視界に人が現れた。
 「どうしてここで寝転がってるの?ベンチあるのに」
 「空が見たくてさ。それに、こうしてると風が気持ちいいんだ」
 相手はふぅん、と呟いて、ぼくの横に寝転がる。
 「ほんとだね」
 「だろ」
 「久しぶり、井内くん」
 「うん、久しぶり、癒真」
 風が吹く。癒真がえへへ、と笑った。
 「井内くん、元気そうだね。良かった。井内くんは、変わらないね。すごく変わったけど、変わらないね」
 「何だよそれ。どっちなんだよ」
 「変なんだけど、どっちもなの。こういう事を私はしばらく考えてたんだけどさ」
 癒真が息を吸う。吸い込む。緑に囲まれた大気を取り込む。
 空気が美しい。空は澄んだ色をしている。
 「……終わり?」
 「あ、ごめんごめん。空が綺麗でさ、ぼんやりしちゃったよ」
 「何だよそれ」
 「えへへ、井内くん、笑い方が優しくなったね」
 「そうか?……となると、ぼくは変わったって事なのか?」
 「ううん、違う。私が思うのはね、人の変化って一概には語れないって事。急になんて変われないし、ずっと変わらずになんて居られないし、努力次第で変わるし、ある日突然変わるし、誰も気が付かない内に変わるし、みんなに囲まれながら変わるし、でもずっと変わらないの」
 「……つまり、要素次第って事か。どこを捉えるかによって違うと」
 「そうなの!だから、井内くんの場合は悩んでいたものがあらかた片付いてすっきりと変わったと同時に、もともと持ってた良いとこは変わっていないのね」
 「ポジティブな意見だねぇ」
 「思うままに言ったらポジティブになったんだよ。あ、大事な事付け加える!」
 風が吹く。横を向くと、癒真は気持ちよさそうに風を浴びていた。その気持ちは分からなくもない。
 「で、何?」
 「さっき井内くんが“どこを捉えるかによって違う”って言ったけど、もう一個。誰が捉えるかによっても違うの」
 くるり、と癒真がこっちを向く。どきり、とした。
 「だから、私にとっては、井内くんが悩んでたとこは変わったし、良かったとこは変わってないよ」
 「……さっきも同じ事言ったよ」
 「あ、あれ?本当に伝えたい事だったからさ」
 癒真の笑顔が、ぼくの心臓を優しく揺らした。その余韻が耳を熱くしている。
 チャイムの音が鳴った。今日は土曜日なので人は少ないが、一応授業はある。だが、この場所で聞くチャイムはどこか遠い世界のものに感じられた。
 人気のないこの美しい世界で、ぼくらは二人きりだ。
 「癒真」
 「なに?」
 ごろり、と身体を半回転させて癒真の方へ。ピンクのカーディガンを羽織っている。
 「癒真が変わったって言った部分。……ぼくは、ずっと悩んでいた事を解決させたんだ。あらかた片づけられたんだ」
 「わあ!」癒真が笑う。「それは良い事ね」
 「うん、良い事だ。だから、答え合わせをしなくちゃ」
 「答え合わせ?」
 「うん。癒真はさ、何か答えを出せた?」
 「うーん、そうだね」
 癒真が上半身を起き上がらせる。深呼吸をして、素敵な空気を胸いっぱいに取り込む。
 「本当にいい天気だね。あのさ、私が一年くらい前に言ってた事なんだけどさ。私が何でここの大学を選んだかって話覚えてる?」
 「うん、覚えてる」
 「わあ、すごいね。私はね、実はあの時まで忘れてしまっていた。毎日が必死で、その癖ずっと下向いてたら、見失ってしまっていたんだ。その事を、井内くんが気づかせてくれた」
 ぼくも上半身を起き上がらせる。輝きが目に入り、眩しかった。
 「それ以来、大学が楽しいんだ。これが、私の見つけた答えだよ。井内くん、ありがとうね」
 眇めていた目を開くと、癒真がいる。さっきから笑顔を見る度にどきどきしてしまって、ちゃんと見れていなかった。照れてすぐに目を逸らしてしまっていた。胸を高鳴らせながらも、きちんと見る。
 癒真は、とても可愛くなっていた。
 癒真は、変わったね。でも、変わらない。変わっていないとこもある。
 癒真がぼくに感謝をした。感謝をしたいのは、ぼくも同じだ。
 癒真がぼくの笑い方を誉めた。それを誉めたいのは、ぼくも同じだ。
 癒真がいい天気だと言った。その評価は、ぼくも同じだ。
 空が綺麗でぼんやりしてしまいそうになる気持ちも、素敵な空気を胸いっぱいに取り込みたくなる気持ちも、大学が楽しいという気持ちも、全部同じだ。
 癒真が、答えを出した。
 ぼくも、この一年間でいくつか答えを出した。どれも大事なもので、そしてその根底には同じものがある。
 ぼくの、答え合わせをしないと。
 癒真が立ち上がった。そして、大きく伸びをする。癒真の足は、相変わらず綺麗だ。赤い花から伸びている。この花は、この世界に良く合っている。
 「んー、本当にいい天気だ」
 「癒真。きみに言いたい事があるんだ」
 「なあに?」
 癒真が振り返る。ぼくは、この存在に、この髪に、この目に、この鼻に、耳に、眉に、首に、喉に、胸に、お腹に、背中に、肩甲骨に、お尻に、足に、くるぶしに、心に、輝きに、すべてに、告げよう。
 「あのさ」
 風が、吹いた。
 癒真はぼくの方を見ている。
 ぼくは、花を見ている。
 花である癒真の花、赤い花弁が風のいたずらで捲られた。
 癒真は気が付かない。癒真はぼくを見ている。
 ぼくは花を見ている。赤い花の中、癒真の綺麗な足の付け根。
 美しい花の、秘められた中身。
 そこには、美しく可愛らしい、レースのついた下着があった。
 
 ……あれ?
 おちゃめな風はすぐに通り抜け、花は再び役目通りの位置に戻る。
 
 ああ、そうか。
 そうだなあ。そりゃそうだよな。
 
 「井内くん、どうしたの?」
 癒真は可愛い顔をきょとんとさせて、尋ねる。
 質問には、答えなければ。
 「ああ―――大丈夫、何でも無いんだ」
 「そうなの?」
 「うん、どこかに遊びにでも行こうか」
 「うん、行こう!」
(了)

4-⑴ さて、問題。ストーカーです!

 
第四章「答え合わせ」
   “他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる”――誰が言い出したのかは分からないが、そんな言葉がある。この言葉はポジティブな光を放っていて、人々に希望を与える。
   だが、果たしてこれは真実だろうか。明るさを無理強いする主張ではないか。なぜなら、そもそも自分を変えるという行為が至極難しいものなのだ。例え「私は変われた!」と思える場面があっても、それは哀れな勘違いに過ぎず、二日後には「ああ、やっぱり私は変われないんだ」なんて落胆しているかもしれない。実際、人生にはそんなケースが多い。人間は思い込みが激しく、その時その時で「変わった」「変わらない」などと色々に語るが、結局大体が感情の揺れに左右されているものである。人間の思い込みは激しい上に、刹那的でもあるのだ。
   人間は自分で思っている以上に、自分の事など分からない。人間の事など分からない。なので、自分の思考の迷走に悩み、気持ちの浮き沈みに苦しむのだ。人間は自分の事なんかロクに分からず、望む方向になかなか進めない。だから、明るさを無理強いするのだ。強い輝きを放っているように見える言葉を喜んで身に着け、満足する。「これで変われた」と刹那の安息を得る。その短命な効果が切れてしまったら、新しい光を渇望する。そんな人間の性質があるから、世間の中に度々現れる無理強いの光には多数の人が群がるのだ。まるで、光を求める虫のように。
   短い効果。強い快楽。中毒性。
   まるで、麻薬のようね。
   かつての私はそう、思っていた。
そんなかつての私自身はというと、麻薬に近づく事すら出来なかった。なぜか。答えは簡単。例えそんな強い力を手に入れても、私なんかが輝けるだなんて思えなかったのだ。世間の女の子が花として鮮やかに咲いているとしたら、私は泥。汚い存在は誰にも愛でられず、せいぜい子どもの遊び道具となるのみ。
   そうだ、また別の日の私はこう思っていたっけ。……“人というものはそう簡単には変われないとか、変わる時は一瞬で変われるだとか、人は変わらずにはいられないとか、世間では人間の変化について様々な見解がある”なんて。ここからも、人間の刹那的かつ激しい思い込みの様子が窺い知れる。
   あの時の私は、麻薬的な力に縋っていた。赤いスカート。それから、年下の男子高校生。汚い私が、何かを期待して希望の裾を握りしめていた。その行為は、他人から見たら本当に哀れだっただろう。
   では、今の私が。今の私が人間の変化について何か言葉を選ぶとしたら、何と語るだろう。
   「癒真ー」
   間延びした声が私を呼ぶ。振り返ると、見慣れた黒縁眼鏡に三つ編み。
   「紗綾。授業終わったの?おつかれさま」
   「うん、待たせちゃってごめんね」
   「ううん、私も図書館にいて、さっきここに来たとこだし」
   「そう?良かったぁ」
   「じゃあ、行こうか」
   「うんー」
   目的地は、学校から徒歩十五分程の場所。サンダルを履いた紗綾の歩みはペタンペタンとしている。会話が三つくらいのトピックで盛り上がった頃に、到着した。
   「いらっしゃいませー、あ」
   「わー、制服似合うね。みい子」
   「みーちゃん、やほー」
   「おっ……二人様ですね、コチラの席にどうぞ」
   案内されるままに、店内を少し進んだ席に座る。
   向かいあった紗綾と目を合わせた時に、堪え切れずに二人して笑ってしまった。お好み焼き屋のエプロンをも格好よく着こなすみい子が、私たちが来た事に動揺して少しぎこちなくなってしまっている様にギャップを感じて面白くなったのだ。
   「コチラ、お冷失礼いたします。何笑ってんのさ」
   「だって、みーちゃんが可愛いんだもん」
   「なんだとう」
   「ここではこうやって話してて良いの?」
「まあ、店長が遠いしな。ちょっとだけならね。ちょっとついでに、サービスもするよ」
   「「わーい!」」
   嬉しさのあまり、ハモってしまった。
   みい子はそんな私たちを笑顔で見てから、「内緒だぞ」とのセリフと共にウインクをして厨房の方へと向かった。
   「はー、みーちゃんはホントにかっこいいね」
   「だね」
   「ホントに。その辺の男の子より断然かっこいい!あたし、男の子と付き合うより、みーちゃんと付き合いたい」
   「あは、紗綾は本当にみい子が好きだね」
   「うん!もちろん、癒真も大好きだよー。でも、癒真は可愛いの。かっこいいみーちゃんと、可愛い癒真とに囲まれて、あたしは幸せだなあ」
   「紗綾の方が可愛いよ」
   「なにおう!そういう時は“紗綾も可愛いよ”って言えば良いんだよ!癒真すごく可愛いもん」
   「ふふ、あはは」思わず笑い出してしまう。「ふふっ、紗綾はポジティブだね。ありがとう」
   「あたしの取り柄だもんー。癒真が笑ってくれて、良かったぁ」
   彼女の口癖である“良かったぁ”を聞くと、私も“良かったぁ”と思えてくる。不思議なパワーを持つ、優しい言葉だ。
   私はこの可愛らしく前向きな少女も、ボーイッシュで格好良くておちゃめなアルバイト中の少女も二人とも大好きだ。彼女たちの魅力に気が付けて良かった。
   みい子のオススメだという、エビとアボカドが乗ったお好み焼きを食べている時に、紗綾がそのトピックを持ち出した。
   「よし、恋バナタイムだ恋バナー。癒真は最近なにかドキドキイベントとかあった?」
   「ドキドキ?うーん」
   あ、そうだ。
   ドキドキかは分からないが、つい先日まーくんに言い寄られた。
   告白された、とは少し違うのだ。言い寄られた、が一番近いのだと思う。
   癒真ちゃん、久しぶり。俺の事覚えてるー?……って冗談冗談、覚えてるよね。いきなり呼び出してゴメンネ。
   あ、アドレスは弘菜に聞いたの。そう、弘菜さ。アイツほんと最悪な訳。癒真ちゃんにも何となく分かってきてたんでしょ?アイツが嫌な奴だって事。最近あんま一緒にいないみたいだもんね。一緒にいなくて良いと思うよ、ホント。アイツの何が嫌ってさ、まずわがままな訳。本当マジでお前何様神様!?てくらいわがままよなアイツさ。あれ買ってこれ買ってあそこ行きたいこれじゃヤダここじゃ嫌、え、アタシの言う事聞けないの、そんな正俊キライってな。まあ、俺は今となってはあんな糞ビッチに嫌われようが何だろうが何でも良いんだけどさ。そうそう、ビッチ。マジでアイツ、ひでぇビッチだぜ。多少良い男なら、誰にでも尻振りやがるからな。尻尾動きまくりの雌犬だわ。試しに女欲しいつってた俺の友達に近づかせてみたら、余裕でその日の内に合体しやがったもんな。ほんとは癒真ちゃんのアドレスも、ソイツにビッチのスマホ覗かせて知ったの。まあ、あんな糞ビッチでも、癒真ちゃんのアドレスを手に入れるのには役に立ったから少しは価値あったかな。ああ、そう。俺は、癒真ちゃんと話したかったの。何でか分かる?分からないかな?――癒真ちゃんさあ、最近すげぇ可愛くなったよね。あ、コレ変な意味じゃないよ?もちろん、褒めてんの。そんな可愛くなったらさあ、色んな男に声かけられない?競争率高くなるね。何気に胸もでかいしさ。あ、コレ変な意味じゃないよ?もちろん、褒めてんの。エッチな話題は苦手だったかな。とにかくさ、癒真ちゃん可愛いよ。で、何が言いたいかって言ったらさ、癒真ちゃん、俺と付き合わない?こんな事言うのもアレだけどさ、癒真ちゃん俺の事好きだったでしょ。最近あんまり会ってなかったけどさ、ちょっと前にもじもじとした感じで俺を見つめてる感じとか、可憐な女の子な感じで超良かったよ。その時に癒真ちゃんの思いに応えてあげたかったけどさ、ホラ、その時は弘菜がいたじゃん?だから仕方なくってさぁ。でさ、どうよ?この後空いてるなら、梅田でもいかない?
   私は、ただ黙って目の前の男を眺めていた。
   その人間は、本当にただの人間だった。かつてのあの溢れんばかりの光はどこへいったのだろう。
   ああ、これが人間の変化というやつか。ただ、変わったのは相手じゃない。私だ。私の思考が変わって、視界に変化をもたらしたのだ。
   私は目を閉じ、開いた。さあ、答えよう。
   「私、前まで人の事が見えていなかったの」
   「あ、先に謝るよ、ごめんね。もしかしたら、あなたの質問に正しく答えられないかもしれない。でも、私の答えを話したい」
   「とにかく、私は人が見えていなかった。弘菜が私の事を利用しているのも、陰で馬鹿にしているのも気づかず、能天気に友達だと信じていた」
   「これは弘菜が悪いって言いたいんじゃないの。さっき言ったように、私が人の事を全然見えてなかっただけなの」
   「原因から結果が生まれた、というただの事実なんだ」
   「私が人の事を見られないのは当たり前。そもそも私、自分の事をちゃんと見ていなかったの」
   「自分の外見に自信が無くって、鏡から目を背けて、いつも下を向いて、向き合っていなかった。自分にも周りにも、向き合っていなかった。そんな私が上手く生きていける筈がない」
   「……って事に、最近ようやく気が付けたのね」
   「気が付けただけでは、人はそう簡単には変われないけど、気づきってのは、大切な最初の一歩。この一歩は大きな変化の可能性を孕んでいる」
   「ってどっちなんだよって話だね。ややこしい話だよね、本当に」
   「私は私に向き合いはじめた。そして、周りにも向き合いはじめた」
   「そうして向き合う事で、少しずつ分かったよ」
   「まーくん、あなたの外見はすごくかっこ良い。鼻筋の通った顔も、流行の髪型も、高い背も、服装だってお洒落。でも、かっこ良いのはあくまでも外見の話」
   「中身はね、ぜんっぜん。クソ程に、私の好みじゃないよ」
 
   なんて、思い出してはみたけど、クソ程にどうでもいいね。
   「実は、気になる人はいるんだ」
   「え!ほんとー!聞きたい聞きたいー」
   「あはは、素敵な人なんだよ」

3 さて、問題。ストーカーです!

第三章「解答」
 
   さて、ぼくの答えは何か。
   人間は、常に問題と出会う。大なり小なり、ソレらと向き合い続けるものなのだ。ここで言う問題とは、困った出来事・難儀な案件といった意味での問題でも、質問・設問……つまり、テストの出題的といった意味での問題でもある。どちらにせよ、解答が必要なのだ。何者かから絶えず作られる問題に答え続ける……これが、生きるという事なのだ。
   問題が難しかったり、増えたりすると、人は酷く悩み苦しむ。考えても考えても答えが出ず、問題に屈してしまいそうになる時、人は絶望を抱く。駄目だ、こんな問題があるのなら、自分は生きていけない。先が見えない。二度と起き上がれない。笑えない。輝きを抱けない。死んでしまいたい。そうして、敗北した時、人の命は終焉を迎える。命半ばにして、ゲームオーバーとなってしまうのだ。
   ぼくは。ここのところのぼくは、ずっとゾンビであった。ゾンビであるという事は、生きるのを半分放棄しているのだ。問題の脅威に脅かされ続けた結果だ。だが同時に、ゾンビであるという事は、死ぬ事を拒否している事実もあるのだ。ぼくはぼくを囲む問題に震えながらも、ソイツらに負けてしまう事は嫌がっていた。果てそうな魂の底で、必死で抵抗し続けていたのだ。そう、思いたい。今なら、そう、思える。
   さて、ぼくの答えは何か。
   最近のぼくは問題を抱えていた。大きな問題。たくさんの問題。難しい問題。それは、受験の事であったし、夢の事であったし、母親との関係であったし、青春の不安、楽しさへの切望、異性への興味……きっと、そんなような様々のものが手を繋いで、くっついて、入り交ざって、大変な脅威となっていたのだろう。最近のぼくは、と言ったが、実際はこれらの問題の種はもっと昔に蒔かれて、ぼくが成長するにつれて芽生えていったものなのだろう。ぼくの身体や心に強く絡まってきたのが、今この時期であったというだけだ。つまり、これの答えを出せば、ぼくは驚くような解放感を手にする筈だ。これまで見た事もかったような景色に涙するかもしれない。これは、チャンスだ。良い機会なのだ。ぼくは、楽しみだ。ぼくは、楽しみだ。
   さて、ぼくの答えとは何か。
   良い機会だとは言ったが、これは簡単なものではない。この問題は、これまでずっとぼくの傍で育って、絡み付いてきたものなのだ。いや、ひょっとしたら、ぼくの中で育っていたのかもしれない。何にせよ、コイツに答えを与えてやるのは至難の業だ。
   意識せずとも、ソコにあり続けたものなのだ。意識なしにあり続けたという事は、最早この問題はぼくの一部なのかもしれない。そう思うと、相手どるのは尚更難しい。ぼくは、ぼくの心臓に言ってやらねばならいのだ。コイツを育てるに至った、己が愚考を。己が愚行を。己に対して反旗を翻さねばならない。これは、戦いだ。
   ここで一つ、覚えておくべき大事な事がある。これは戦いだが、殲滅戦では無いという事だ。ぼくは、ぼくを滅ぼす必要はない。なに、少しビンタして、水をかけて、目を覚まさせてやるだけだ。そう考えると、これまで至難の極みと思えたものが、少しほどけたように感じた。確かに難しいけど、シンプルなのだ。
   ……この考えは、半ば言い聞かせのようなものだろう。ぼくは足が竦んで膝が震えるのを誤魔化す為に、必死で自分を奮い立たせている。大丈夫だ。そうだ、確かに怖いのだが、この恐怖は問題に襲われている時の恐怖とは種類が違う。立ち向かう勇気を得る為の恐怖だ。だから、大丈夫。こんな恐怖、ちょっとしたら、消えてしまう。そうだ、深呼吸をしよう。ひと呼吸。ふた呼吸。み呼吸。ぼくから息が出ていき、新しいものが深く取り込まれる。眉間から力が抜ける。
 
   ぼくは、具体的に何を考えてきたのだろう。何をしてきただろう。どこで問題に取り込まれてしまっただろう。
ぼくはがんばって、がんばって、ゴールを目指そうとしていた。それは決して間違いではない筈だ。あの時の小学生のぼくは確かに、あの大学生のお兄さんに憧れていた。あの人は輝いていた。ぼくは、大学生になりたかったんだ。がんばって勉強していると、お母さんも褒めてくれた。先生も褒めてくれたし、クラスメイト達が輝いた目で見てくれた。彼らに勉強を教える事もあった。
   中学校に入った時はどうだ?ぼくはがんばっていた。周りのクラスメイトがふざけて遊んでいる時も、ぼくはがんばっていた。変わらずがんばっていたな。じゃあ、ここもこれで良かったんだろうか。不意に、中学生のぼくがこちらを見る。中学生のぼくと目が合う。中学生のぼくが口を開く。「もっとみんなと遊びたかったよ」中学生のぼくは、少しさみしそうな目をしていた。そうだ、この頃から勉強ばかり優秀でも、小学生の頃のようにはみんなは接してくれなかった。母親は変わらず褒めてくれたが、クラスメイト達は何処か冷たかった。遊びにノリの悪いぼくと進んで接したがらなかったのだろう。昔は自然と傍にいた友達が、少しずつ離れていく。ぼくは指を咥えるような心地で彼らを見つめ、ノートに向かう。先生はぼくを優秀だから、と評した。だが、その言葉には、クラスの悪ガキ達に向けられるような温かみが乏しいように感じた。
   「ごめん、ごめんね」ぼくは、中学生のぼくに言った。「いいや、きみだけが悪い訳じゃない。こうやって勉強し続けているのはぼくなのだから。それに」中学生のぼくは目を伏せた。「そうやって、未来のぼくに謝られると、なんだか悲しくなる」「そうだね。そうだよね。じゃあさ」ぼくは息を吸い込む。「ありがとう。がんばってくれて、ありがとう。これからは、がんばりながら、きみの願いも叶えられるようにするよ」中学生のぼくは、驚いたように目を見開いて、ぼくを見つめた。そして、笑って言った。「ありがとう」
   高校になってからはどうだ?ここで、色んな問題が成長したように思える。進学校とはぼくが思っていた以上にレベルが高くて、驚いた。クラスの中の勉強の出来る子、という立ち位置から一気に転がり落ちた。それでも、最初は満足していた。この環境に来られた事を、誇らしく感じていた。初めての定期試験の日、学校が早く終わったので、早く家に帰って勉強をしようと思っていたさなかに、中学時代の同級生を見かけた。といっても、数秒程誰だか分らなかった。明るく染めた髪に、着崩した制服。去年までクラスが同じだった潮田だと分かった時は本当に驚いた。慌てて視線を下げ、道路の端へと寄る。こっちを見ている気配がないので、少し視線を上げる。潮田は派手な女と一緒だ。楽しそうにカラオケの計画を立てている。その女は派手だが、可愛らしい。女子は化粧をしていると、そう見えるものなのだろうか。そう考えながら眺めていて数秒、ようやく気が付いた。もしかして、こいつは仁科なのか。仁科マヤ。潮田と同じくぼくが中学三年の時のクラスメイトであり、そしてクラスの女子の中で断トツと言える程に可愛かった。
   ……この判断はぼく個人によるものなのだが。一緒のクラスになってから一年間ずっと話しかけたかったが、なかなか叶わない。まあ、美少女とは遠くから眺めるものなのだろう。そう思って自分の気持ちを落ち着かせ続けたぼくが仁科と話す事は、とうとうなかった。もしかしたら仁科は、ぼくとクラスメイトだった事すら知らないかもしれない。でも、美少女だから仕方ない。美少女には、そう簡単に近づけないものだ。そうやって自分の感情を誤魔化し続けてきた相手が、今目の前にいる。同じようにかつてのクラスメイトである潮田と笑顔を並べている。堪らなくなって、今すぐ駆け出したくなった。でも、動けない。二人が通り過ぎるまでは、じっと背景と化しておかなければならない。そうして二人が通り過ぎ、気配も声も何もなくなった後に、全力で走った。
   「仁科が好きだった?」ぼくは呟く。すると、目の前にぼくが現れた。今から一、二年前のぼくだから、背丈は殆ど変らない。顔には既に絶望が映り始めている。「さあね。可愛いとは思っていたけど、どうにもならないよ」「どうにもならない?」「うん。ぼくにはね」
   確か、その時の定期試験はボロボロだった。中学生時代にいた酷い成績のクラスメイトのような点まではさすがにいかなかったが、それでもぼくが取った点数はこの学校ではあり得ないものだった。信じられない、といった目を先生にされたものだ。こういう時、中学生時代のクラスメイトはどうしていた?確か、先生には怒られながらもどこか温かみのある言葉をかけられていた。そして、その酷い点数が書かれた紙を広げて、仲間内で盛り上がっていた。点数は低いのに、テンションは本当に高かった。周りの奴らは笑っていた。仁科もだ。仁科も呆れたようにしながら、でも楽しそうに笑っていた。じゃあ、高校で酷い点を取ったぼくもそうすれば良いのか?でも、ぼくにはそんな仲間はいない。それに、この環境でそんな事をすれば、冷たい目で見られるのがオチだろう。ここは、そういう場所なんだ。がんばってきた人だけが来る事ができる、選ばれた場所。
   「高校が好き?」ぼくは呟いた。目の前のぼくは暗い顔をする。「分からない。がんばってきたぼくが来るべき場所の筈なのに、ぼくはここでも浮いてしまうんだ」「何が駄目なんだろう」「分からない」「……きっと、迷いがあったんだ」
   母親との関係の悪さは、中学時代からも少しはあった。それでも、中学生の頃は何とか取り繕ってきた。だが、学校生活での鬱憤が溜まるごとにソレは上手くいかなくなっていった。母親が思うだろう“優秀で勉強の良くできる息子”はもういないのだと感じる程に、母親と顔を合わせるのが苦痛となっていった。口論が増えた。
   「母親が嫌い?」ぼくは呟いた。目の前のぼくは哀しい顔をする。「そういう訳じゃないよ。家族だしね。でも」「でも?」「でも、もう上手くいかないんじゃないかって思える」「色んな事が上手くいかないね」「……そうだ。ぼくは、ぼくばっかり、色んな事が上手くいかない。みんなは上手くいってるのに」
   目の前のぼくは歯ぎしりをして、声を張り上げた。
   「どうしてぼくは上手くいかないんだ!もう少し、もう少し何かが違えば上手くいく筈なのに……!」
   「その通りだ」
   「え?」
   ぼくは、キョトンとした顔で涙を流しながらこちらを見た。ぼくも涙が出そうだ。でも、ぐっと耐える。堪えているつもりだが、もしかしたら流れ出ているかもしれない。
   「もう少し何かが違えば、きっと全てが上手くいくんだよ」
   だから。
   「これからぼくは、そのもう少しを手に入れる。もう少し考えを変えて、上手くいくようにする」
   だから。
   「これまでおつかれさま。がんばったね。ありがとう、ありがとう。ありがとう」
   滴が顎を伝っていた。
   鋏を取り出す。ぼくにしつこく絡まる蔦を切らなければ。
   さて、ぼくの答えとは何か。
   ぼくの答えとは何か。
 
 
   禁断の果実について、考える。
   初めにその発想に至ったのは、確か電車内で痴漢を目撃したからだった。それは、純粋たる性欲からなる行為ではない。サラリーマンのストレス解消。相手を虐げる優越感。リスクの中、タブーを犯す緊張感。それらが合わさって生まれる快楽が、禁断の果実の味。最初はそう、認識した。
   こういった果実は、人間誰しも心の底で欲しているものだろう。例えば、未成年のたばこや酒。例えば、店に並べられた商品をポケットに入れる事。例えば、年頃の妹への興味。人によってその種類は様々で、全て挙げる事など叶わない。他人から見ると馬鹿馬鹿しく思える只の犯罪でも、当人にとっては魅力ある誘いなのだ。それは非常に良い味がするのだろう。脳の芯を眩ませる、強い香りがする。
   だから、ぼくも欲しくなった。問題にがんじがらめにされたぼくは毎日を生きるのが辛く、助けを求めて、トリップを選んだ。少し現実から目を逸らす事が出来るのなら、それで良い。
   そう思ってぼくが噛り付いた果実は、甘い甘い毒だった。少しだけ、と含んだ毒はぼくを捉えて離さず、ぼくはどんどんその魅力に呑まれていった。果実を味わっている間は蕩けそうな程に幸せで、少し遠ざかってしまうと不安になる。ぼくはすっかり中毒患者になっていた。
   これでいいんだ、と思っていた。痺れた脳がそう判断し続けた。家で暴れたり、誰かを殴ったり、学校で銃をぶっ放す代わりに、この刺激があるのだ。この味のお蔭で、他の問題が抑制されている。何処かでそう、信じていた。
   だが、現実はそうではないのだ。問題に答えが出されないままに抑制される筈がなく、大人しく思えたのは、ぼくの脳が蕩けていて気が付かなかっただけ。むしろ目を背けている間に、問題はどんどんぼくを締め付けていく。その圧迫感に気が付いた頃に、もう一つ知ってしまう。甘く魅力ある果実も、実は大きな問題なのだという事を。
   そうなると、もうまともに息ができない。苦しんで苦しんで、締め付ける問題から意識を逸らす為に果実にすがろうとするが、それ自身もどうしようもない問題。その事を知ってしまってはいるが、それを喰らう以外に救われる道も分からない。泣きながら、息をひゅうひゅうと吐きながら、涎を垂らしながら、果実をむさぼり続ける。
   禁断の果実とは、そういうものだったのだ。
   今のぼくには、そう判断できる程の冷静さと客観性がある。
   ここで一つ、ぼく自身に確認しておきたい事がある。
   それは“では、ぼくが禁断の果実を齧った事は正解だったのか、間違いだったのか”という事だ。
   ……いや、少し違うかもしれない。
“ぼくは禁断の果実と出会えて幸せか”
こうしよう。
 
   さて、ぼくの答えとは何か。
 
 
   癒真について、考える。
   禁断の果実。ぼくにとっては、まず、そうだった。
   だが、他者にとっては違っただろう。癒真は、ただのダサい女子大生だ。自分で服を買った事なんてなくて、親が選んだものを着ているんじゃないかって思える格好。中学生のような靴下に靴。その顔は、ナチュラルメイクなんて言葉では誤魔化せない。化粧をあまりしない子が好みなんて言っている男子も、癒真を見たら発言を訂正せざるを得ないだろう。女子の自然な可愛さは、自然に作られるものではないという事を思い知らされる。癒真の髪を見ていると、世間の女子が如何に髪のセットをがんばっているのかという事が窺える。癒真は女子の汚点であり、周りの女子たちの完全なる引き立て役であるのだ。癒真は、本当にダサい女子大生だ。癒真と出会う人出会う人がそう思っていただろう。
   だが、そんな癒真に変革の時が訪れた。癒真はぼくにとって、禁断の果実かつ変革の存在となった。
   癒真の変革の様は、他者から見たら、実に滑稽だっただろう。癒真にとっての完璧な正解は、他者にとっての大間違い。ああ、癒真は馬鹿だ。その中途半端さが他人に馬鹿にされている事に気が付かず、自信たっぷりに赤い花を揺らす。癒真もある意味、トリップしていたのかもしれない。現実が見えずに、夢の世界で舞っていた。でも、癒真のトリップは禁断の果実ではない。癒真は誰にも迷惑をかけていないし、そもそも禁忌を犯していない。癒真は馬鹿で、愚鈍で、素直だから、禁断に手を出す事なんてできない。癒真には、できないんだ。
   癒真は本当に馬鹿だから、自分が一番の友達だと思っていた相手にも影で馬鹿にされている。そうして利用されている事なんて、癒真は気が付かない。気が付かないのは癒真だけで、きっと癒真以外の周りの人たちはみんな知っていただろう。癒真は馬鹿だ。鈍間の間抜けだ。
   そんな癒真が、男を好きになっただって!勿論人間なのだから、別に人を好きになる事は悪い事ではない。でも、癒真は馬鹿だから、その相手と方法とを間違えている。なんて馬鹿で、可哀想な癒真。癒真以外の人間はみんな、癒真の恋が馬鹿らしい事が分かるのに、その真ん中で癒真は目を輝かせて、胸をときめかせ、花を揺らしている。なんて愚かで滑稽なのだろう。
そして、花は無残に散った。
   この結果は誰にだって予想がつく。むしろ、今まで何も知らずに幸せに過ごせて良かったね、と癒真に言いたくなるだろう。
   ぼくは、そんな癒真に手を伸ばした。そうしたら、癒真はぼくの手を握った。
   そこからだ。癒真が輝き始めた。だが、禁断性も孕んでいる。癒真はぼくにとって、聖なる輝きと甘い毒の魅力とを二面的に抱く存在となった。癒真はぼくを快楽に沈めながら苦しめる果実なのか。それとも、ぼくを救う為に揺れる美しい花なのか。
   癒真は、馬鹿だけど、夢を持っている。夢を語る癒真は力強かった。
   癒真は、ぼくの問題に対して、答えのヒントをくれた。ぼくを導いた。
   癒真は、出会った頃より、ずっと綺麗になった。服装もそうだけど、自信がついた事による笑顔が綺麗なのだろう。
   癒真は。
   ぼくは、癒真が。
 
 
   さて、ぼくの答えは何か。

2-⑷ さて、問題。ストーカーです!




 学校。昨日ぶりの教室は、昨日とは全く違うようだった。
   勿論、ぼくが散弾銃やバットで破壊しつくした、という意味ではない。クラスメイトは至って平和に、各所集まって昼ごはんを食べていた。
見える世界は気持ちの問題、なんだろうな。
   「そういう話って好きじゃなかったんだけどな」
   「ん、何がだ。あ、もしかして昨日出たあのマンガの新刊買ったか?あの展開はないよな」
   「違う。まだ買ってないから、ネタバレはすんなよ」
   「えー、どうしよっかな」
   にやにやと笑う吉留。さっきからサンドイッチを開けるのに苦戦している。
   ぼくは弁当の卵焼きを口に運んだ。
   「それにしても吉留って、なんていうか余裕だよな」
   「どういう意味さ。まあ確かに、俺は毎日余裕のよっちゃんなんだけどなー、んはは」
   「いやさ、俺たちって受験生じゃん。で、ウチ進学校だし、プレッシャーすごいじゃんか。でも、お前はあんまり切羽詰ってるように見えないよなぁ……って」
   「あーなるね」グイグイとサンドイッチの包みを引っ張る吉留。「や、まぁ、俺も一応勉強はしてるよ。夢の為にね。確かに他の連中よりかは、試験に力を尽くしてないけどね」
   「夢?」
   「うん。俺さ、パティシェ目指してんだ」
   パァン、と音を立て、サンドイッチが散る。だが、吉留は真剣な顔をしていた。ぼくも、吉留の言葉から心が離せない。
   「え……、パティ……シェ……?じゃあ、大学は?」
   「製菓専門学校に通うつもりなんだ。まあ、大学も行ってみたいけどさ。でもやりたい事ができるのは、前者の方だし」
   「だってお前、ここ、進学校で……お前成績悪くはないし、今までがんばって、ここまで来たのに……大学に行かないのか?」
   「んー、勉強してここに来れたのは嬉しかったよ。でも、俺が勉強してたのは、やりたい事見つかるまでがんばろう、って思ってたからなんだ。とりあえず成績が良ければ、選択肢が広がるだろ。で、去年くらいなんだけど、決意したんだ。パティシェになろうって。迷いもあったり、親と何回か衝突もあったけど、今では応援してくれてるし、俺の決意も固まったよ。今は、知り合いのケーキ屋で勉強させてもらってる」
   「……」
   「って……思えばなんかこうやって夢の事話すんの、初めてだな。ちょっと照れくさいな。良かったら、衛の夢も聞かせてくれよ」
   「え……あ……」
   夢?
   そんなもの……考えた事すらない。小学生の時から乗せられたレール。決められたルート。ゴールは、大学生。大学生で、終わり。だから、大人になったら死のうと思っていたんだ。
   吉留の目は、澱んでいなかった。目を輝かせ、いきいきと脳内を語った。
   「ぼくの夢は……」
   脳内を探すが、見当たらない。違ったものなら、たくさん散らかっている。
   「……これから、考えるよ」
   「そっか。また見つかったら、教えてくれよな! ……って、うわああああああサンドイッチが爆発してるうあああああ」
   気が付いてなかったのかよ。
   弁当箱入れからティッシュを取出し、あたふたしている吉留に手渡してやる。と、紙切れが目に入った。
   「……」
   十分前に、一度読んだ文章だ。長い文でもない。内容は覚えていたが、ぼくはそれを取り出す。
   〈昨日は久しぶりに勉強の事とか話してくれてありがとう♪ これからもがんばってね〉
    十五秒程見つめ、カバンに仕舞った。
   「……明日の五限って数学だったよな。ちょっと課題が分かんないんだけどさ、良かったら教えてくれないか」
   「え、無理だわ。ぶっちゃけ俺も今の範囲全然分からん」
   「おい、何だよソレ。課題どうしてたんだよ」
   「いやー、それはそれは熱意と誠意を込めて、問題を解こうとした努力の跡を残しまくって提出したわ。勿論赤字まみれで返ってきたけどな!なはは!」
   声を上げて笑う吉留。サンドイッチはいまいち片付いていないが、こいつの脳内はすっきりとしているんだろうな。
   あー、なんだ。そんなもんなのな。
   重たい髪をばっさりと切った後の、癒真の笑顔を思い出す。
   ぼくを縛り付けて動けないようにしているものは何だろう。それを片づけていけるだろうか。まだ、分からない。これから考える。この事は、もしかしたら、すごくシンプルな事なのかもしれない。
 
 
   人というものはそう簡単には変われないとか、変わる時は一瞬で変われるだとか、人は変わらずにはいられないとか、世間では人間の変化について様々な見解があるが、一昨日凄まじい転機を向かえた私は、今のところ特に変わらず横たわっていた。
   というか、動けなかった。地上を洗う為に天の窓が開かれたかが如き雨を身体中で浴びた私は、すっかり風邪を引いてしまったのだ。体温を測ってみると、三十八度七分。白い壁が黄色く見える。ああ、古びた壁だから、もともとこんな色だっけ。
   水を飲み、布団に横たわる。汗ばんで、気持ち悪い。だが、着替える元気もシャワーを浴びる元気もない。一人暮らしで体調を崩すと、本当に困るものだな。
   タオルを引き寄せる。そして、顔を埋める。目を閉じて、探す。少し経って、うっすらと感じる事が出来た。井内君のにおいだ。ホッと安心する。と同時に、焦りも生まれた。確実ににおいが薄れていっている。
   一昨日、井内君が使ったタオル。彼が帰った後に、なんとなくにおいをかいでみた。そうしたら、たまらなく安心して、それから無性にドキドキしたのだ。思えば、さっきまで身を寄せ合ってパソコンを見ていたのだ。通じ合えた男の子が近くにいて、二人笑っていた。
   彼の存在は、これまでにない安心感だった。その夜私は飽きる事なく、彼のにおいを感じていた。においに慣れたら、夜風を浴びた。そしてすぐに、タオルに顔を埋め、彼の元へと戻った。気が付いたら、眠りについていた。
   そんな彼の安心感が、薄れつつある。私は、悲しくなった。ぼんやりとする意識の中、彼のにおいを想う。
   チャイムの音に少しずつ意識が覚醒させられる。誰か来たのか。身体は重たいが、行かなければ。鳴り続ける音に謝罪しながら、のったりと廊下を進み、鍵を開けて、ドアを開ける。
   宅配の制服を着たお兄さんが、段ボールを持って立っていた。ハンコを取りにいかねければと戻ろうとしたが、サインで良いと声をかけられる。良かった。所定の位置に名前を書く。そこで、お金を払わなければならない事に気が付く。結局戻らなければ。足と意識を引きずり、財布を持ってきて、お金を払う。お兄さんは爽やかに挨拶をして、私に段ボールを渡した。ドアがちゃり。
   随分大きいが、一体なんの荷物だろう。親が何か送ってきたのだろうか。居間に戻り、段ボールを置く。今のやり取りで、体力を使ってしまった。そのまま寝てしまいたがったが、荷物が気になる。こういうものは、開けておかないといけない気がするのだ。鋏で、段ボールを開封。出てきたのは、可愛らしい服だった。はて。
   一瞬キョトンとした後に、すぐに思い出してアッと声が出た。次々に服を取り出す。靴もある。全て、素敵だ。そうだ。一昨日、井内君と選んだ服だ。
   寝間着を脱ぎ去り、最初に手に取った服を着る。干してあった赤いスカートを取り、穿く。そして、鏡の前に。
   ……確かに分かった。井内君の言っていた事が、周りの人にバカにされていただろう事が。前まで、なんて不自然だったんだろう。そして、今のコーディネートはなんと自然なんだろう。赤が浮きすぎず、周りと調和しつつも自分の色を適度に放っている。上の服も画面で見たときは私には到底似合わないと思っていたが、着てみると優しく私を支えてくれていた。髪を切ったおかげでもあるのかもしれない。私は乱れていた髪を、ブラシで整える。そして、鏡を見る。
   素敵だ。だが、今の姿に魅入りすぎない。そのコーディネートは脱いで、次の服を手に取る。鏡で確認。先ほどよりは、少し違和感。……これは、もしかしたら、あのスカートの方が良いのだろうか。私は、ピンクのスカートを穿く。良い色合いになった。とても、嬉しい。コーディネートがたくさん考えられる。自分の可能性が、広がる。涙が出そうになった。赤い花だけに頼りきった独りよがりのコーディネートではない。井内君が、一緒に考えてくれたものだ。
   彼に見せたい、と思った。そして、ありがとうと言いたい。
   そうだ、早く外に出よう。シャワーを浴びて、髪を整えて、ドラッグストアで化粧水も買って、素敵なコーディネートを着て、外に出よう。外に出ないと、井内君に会えない。いつまでも寝そべっている暇はないのだ。私は、今、変わる時なのだ。
 
 
   それに気が付いたのは、癒真の部屋に入った日の夜だった。ご飯を食べてお風呂に入って、さあ、寝よう、と思ってベッドに入ったときに背中に違和感を覚えた。起き上がって見てみると、定期入れがあった。
   あ、と思った。あの日拾った、癒真の定期入れだ。寝る前に眺めていて、そのまま何日かベッドの中にあったんだな。この数日気が付かなかったなんて、不思議なものだ。
   さて、不思議だという事は置いといて、これをいつまでもぼくが持っていては、癒真が困るだろう。あれから三日経っているので、新しい定期券は買っているかもしれないが、それにしても学生証なんかはどうしようもないだろう。いや、もしかしたら大学で再発行はできるのかもしれない。そうだとしても、だ。返した方が良いだろう。変に不安材料を与えない方が良いと思うし、ぼくが持っておく理由もない……筈だ。よし、返そう。
   そう思ってから、さらに三日が経った。ぼくは焦り始めていた。癒真に会えない。今までどうやって癒真に会っていたっけ。朝、電車から尾けていた。癒真が一限始まりじゃない時には、高槻市駅で待っていた。そして、帰りを待って尾けた事もあった。そうやって、土日を除いて毎日会っていた。ではどうして、ここ三日は会えないのだろう。月曜……は、部屋に行った日だ。火曜は一限始まりの筈なのに、朝電車にいなかった。水曜は、三限始まり……。どちらの日も、夕方は行っていない。まだ金曜以外には、癒真が何時に授業を終えるのか知らないのだ。そして今朝も……一限始まりの筈なのに、朝の電車に癒真は居なかった。
   焦りが増すと共に、得体の知れないさみしさも感じ始めていた。癒真が遠いのだ。少しずつ近くに感じ、少しずつ手に入れた心地がして、そして月曜にはあんなに傍にいた。芯まで捉えたかのような思いだったのに、会えないのだ。
   そうだ、そもそも電車だって、毎回同じ車両に乗るとは限らない。そうすると、ぼくは癒真に会えなくなる。帰りの時間も金曜しか知らない。いや、あれだって実際ははっきりとはしないものだ。待ち合わせなんてできない。メールアドレスを知らない。そんな仲じゃない。ぼくは……ただの、ストーカーじゃないか。
   ストーカーが、相手に会えなくなったら、ただの他人だ。相手を切望するだけの、赤の他人。
   泣き出したくなる気持ちで、癒真の学生証を見つめる。お世辞にも可愛いとは言えない女子高生がこっちを見返す。
   今の癒真は、この写真より可愛くなったのだろうか。
   そう思った時に、強く感じた。癒真に会いに行かなければ。
   変化した癒真を見たいのか、癒真が遠いのがさみしいから会いに行きたいのかは、分からない。だが、定期入れより大事な理由がぼくを駆り立てるのは確かだった。
   よし、会いに行こう。今日会いに行こう。
   そう決意したところで、チャイムが鳴った。だが、まだ四限終了のチャイムだ。今日は五限まで授業がある。気が気でないまま昼ごはんを食べ、気が気でないまま、五限の数学の授業を受けた。ちゃんと課題は出した。きっと、赤ペンだらけで返ってくるだろうが、出した事は出したのだ。そうして授業が終わり、気が気でないまま岡元の話を聞き、ホームルームが終わると共に、教室を飛び出した。
   駆ける。ちょうどタイミング良く来ていたバスに乗る。バスに揺られて十五分。駅に着く。階段を駆け上がり、特急に乗った。
   そこで、思う。ぼくは、どこに行くんだ。今現在、癒真が何処にいるかなんて、分からないじゃないか。そんな事聞ける手段は持っていない。スマホを見る。十五時を過ぎたところだ。大学だと、何時間目なのだろう。分からない。ぼくには何も、分からない。
   辺りを見渡す。勿論、ここに癒真がいる筈はないのだが、しばらく探す。いない。念の為、隣の車両に移ってみた。大学生らしき人は何人かいた。だが、それを知って何になるのだと言うのだ。ぼくは席に座った。隣の女がこちらをちらり、と見る。何だよ、ぼくは何もしてないだろ。何かされると思ったのか、自意識過剰めが。
   電車が停車。高槻市に着いたようだ。開いたドアを、ぼぉっと眺める。間もなくして、閉じた。何故、身体が動かなかったのだろう。高槻市には癒真の大学があって、もしかしたら癒真がいるかもしれないのに。
   電車が動き始める。……まあ、良い。過ぎてしまった事は、もう仕方ない。桂まで行こう。そこには、癒真の家があるのだから。
   ぼくは息を吐く。身体を椅子に預け、力を抜く。何やらここまで慌てて来てしまったから、冷静じゃなかった気がするな。ここで一度落ち着こう。深呼吸。
   電車の椅子というのは、なかなか座り心地が良い。特に、阪急京都線の二人掛けのシートは正面に人が来ないので、良い。隣にも人が居なければ、最高なのだが。首を少し傾け、隣の女を見やる。雰囲気からして、この女も大学生のようだ。教科書のような本を読んでいる。なんだろう。……“スペイン語通訳者になるには”なんと。この女は通訳になりたいのか。それも、スペインとは。何か、理由があるのだろうか。スペイン語なんて、今まで全く触れた事もない、ぼくにとっては未知の世界だ。どんなものなのだろう。
   それが、この女の夢なのだろうか。
   ドキリ、とした。今まさに隣で、人間が夢の為に努力している。良く見てみると、女が履いているスウェットには“GAIDAI”と書かれていた。外大。外国語大学。きっとこの女は、大学でもその為の勉強をしているのだろう。夢の為に大学で勉強しているのか。大学とは、そういう場所なのか。
第一志望、東京大学なんたら学部。第二志望、東京大学ほにゃほにゃ学部。第三希望、京都大学うんたら学部。第四志望、京都大学のあれあれ学部。
ぼくは、どうやって大学を選んできただろう。“この夢を叶えるために”なんて、思った事がない。もしかして。もしかしてだけど、夢の無い人間は、大学に行ってはいけないのだろうか。
大人になったら、死のうと思っていた。ゴールしたら、生きるのをやめようと。
   なのに、ゴールはゴールではないのかもしれない。ぼくは、スタートすらできていなかったのかもしれない。
なら、今死ぬしかない。
   手首を見つめた。窓を見つめた。電車を感じた。
   隣の女は、ぼくが抱く思いなど知らないだろう、夢のページをめくり続けている。
   “衛の夢も聞かせてくれよ”
   頭に広がるのは、有象無象ばかり。こんなにもあるのに、何も見えない。もしかして、ここには何もないのではないか。たとえ懸命に探しても、輝くものが見つかる事はないんじゃないだろうか。
   絶望的な気分だ。ここのところ、少しずつ救われてきたかと思ったのに、ちょっと気を許せば、世間はぼくを突き落とす。そうして、高いところから笑いながら声を浴びせるのだ。“お前などに助けは来ない、来ないぞ。そこでもがいていろ”ぼくには壁をよじ登る元気もない。両手の爪は、もう全て折れてしまったんだ。
   目を閉じる。そうして、必死に思い浮かべようとする。探すのは、あの果実。ぼくの救いとなるべく存在。浮かんできた。花の中の秘密の実だ。ぼくだけが知る筈の実。
   再びぼくを笑う声がする。“何が秘密だ。お前は今、その花の在処すら知らないじゃないか。お前は花を見失った。花の事など、何も知らないんだ“突き落されたぼくに、泥が落とされる。もはやぼくには、上を見上げる元気もない。視界には汚い泥しかない。ぼくは泥と一体化していた。
   車内アナウンスが、もうすぐ桂だということを伝える。力なく窓に頭を委ねると、河原で野球をしている少年たちが目に映った。涙が出そうになった。
   桂に到着。ほとんど無意識のままに席を立ち、電車から降りる。のろのろと意識がついてきた。ともかく、定期入れは返さなければ。
   改札を抜け、東口の出口。そして気が付いたら、もうドラッグストアを通り過ぎるところだった。じきに癒真の家だ。ポケットに手を突っ込み、中身を取り出す。癒真の定期入れ。こんなもの、拾わなければ良かったのかもしれない。この数日、癒真に迷惑をかけた。定期の事だけではない。ぼくは何をした。ストーキング。盗撮。罪を背負っている。救われないのも、当然の事だ。
   今の行為は、せめてもの贖罪だ。これで赦される筈がないのだが。
   癒真のアパートが目に入る。ここがぼくの、最後の場所だ。
   階段を一歩一歩上る。身体は重く、道のりはとても長く感じられた。
   ようやく、部屋の前に辿り着く。右手に持った定期入れを眺め、そこで、人間らしい、俗物らしい意識を抱いた。どうやって、この定期入れを癒真の元へと渡そう。ただポストに入れるだけでは、ぼくだと気が付いて貰えないだろう。せっかくぼくが返すのに、癒真にただ落としていただけと思われるのはむなしい。
   勿論、ぼくの存在を確実に認識してもらえる方法は、直接渡すことであるが、それが出来たら苦労しない。まだ十六時にもなっていないし、癒真は帰宅していないだろう。
   それでは、メモでも残すか?カバンを開き、紙とペンと取り出す。
   〈ぼくの贖罪です。受け取ってください。それでは、さようなら〉
   ……なんだ、これは。ビリビリに破る。ぼくは、こんな恥ずかしい行為をしようとしていたのか?
   もっと、普通に書けば良いんだ。
   〈実は先日ストーキング中に拾いましたので、ここに返しておきます〉
   違う。事実ではあるのだが、正解ではない。事実が言いたい事と一致するとは、限らないものなのだ。
   どうすれば良いんだ。ドアを見つめて、困り果てた。まるで、鍵を失くしてしまった小学生のようだ。行く宛もなく、出来る事もなく、ただただ強固な扉の前で立ち尽くすのみの小学生だ。
   もう諦めてポストに入れてしまおうか。それか、いっそ今日は諦めて、またいつか電車で会った時にしようか。会えれば、だけど。
   ため息をつきながらノブを握ると、ガチャリ、と回った。予想外の動き。あれ。そのまま、ノブを引く。ドアが動いた。
   強固だと思っていたドアは、実にあっさりと開いた。鍵など、かかっていなかったのだ。
   少し呆然としたのちに、ドアを開ける。鍵が閉まっていないという事は、中にいるのだろうか。それにしても、若い女の一人暮らしなのだから、たとえ中にいようとも、これでは少し不用心だろう。注意してやらないといけない。
   「癒真……さん?いるのか?もしもし」
   玄関は暗く、ぼくの声が響くのみだ。
   「もしもーし……井内だけどさ。いるの?」
   返事はない。人の気配も、ない。
   やはり癒真はいないのだろうか。だとしたら、なおさら無施錠は危険だ。うっかり忘れたのだろうか。そんな油断はいけない。全く。その隙にどんな奴が入ってくるか分かったもんじゃないのに。
   耳を澄ます。音はない。さらに研ぎ澄ますと、水滴の落ちる音が聞こえた。水道がきちんと閉まっていないのだろうか。それから、家電か何かのモーター音。
   ぼくは、玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、足をそろっと廊下につける。そろっと。そろっと。そろっと。
   短い廊下だ、メインルームにはすぐに辿り着く。
   癒真は、居た。
   横たわっていた。
   赤いスカートを穿いて、白い足を存分に晒け出して、洗練された服を着て、横たわっていた。
   ぼくの目は、釘づけになる。目だけじゃない。身体も。意識も。全てが引き付けられ、動けない。
   黒い髪が乱れている。そこに野暮ったさや汚らしさはなく、言うならばそれは扇情的であった。ぼくは唾を飲み込む。髪に隠され、顔ははっきりと見えない。赤い唇だけが、黒と白い肌の間から覗いている。
   癒真の身体全体が、不思議な靄を発しているように見えた。獲物を誘うような、甘い毒を孕んでいそうな靄。ぼくはその靄に包まれる。脳がクラリとして、身体が熱くなってきた。
   引き寄せられるように、癒真に近づく。赤い花。ぼくは床に這いつくばり、その中を覗いた。
   果実だ!良かった。ぼくの果実はぼくから離れちゃいなかった。ここに変わらず、在ったんだ。絶望など消え去る。そんな事を思う暇などない。ぼくは果実を味わうのに忙しい。床に身体を預け、ごろり、ごろりと転がる。全身に、興奮の汗をかいていた。とても、気持ちいい。
   しばらくそうした後に思った。あれ、癒真は何をしてるのだろう。動かないけど、もしかして死んでいるのだろうか。ぼくは、涎を拭って起き上がる。そして、癒真の顔を眺める。髪を掻き分けると、紅に染まった顔が現れた。眉を顰めたまま、目を閉じている。鼻と口の前に手を持っていくと、僅かに呼気が感じられた。生きている。寝ているのか。何か、様子がおかしい。額に手を当てる。ぼくの身体以上に熱い。
   熱だ。風邪を引いているんだ。瞬時に、ぼくの脳内に天秤が現れた。この状態の癒真は非常に官能的だ。風邪が治ると、この味がなくなる。しかし、このまま体調を崩したまま治らず、もし死んでしまっては、ぼくの果実は完全に失われる。どうするか。答えは、すぐに決まった。
   洗面所に走り、適当にタオルをひっつかんで、水で濡らした。癒真の元へ戻り、顔を拭く。汗。目ヤニ。涎。それと、何か分からない汚れを拭き取る。もう一度濡らしにいくと共に、冷蔵庫を開け、水の入ったペットボトルも出した。濡らしたタオルで背中を拭く。お腹も拭く。癒真はブラを付けていなかった。胸も拭く。胸は思っていたよりも大きかった。汗が酷かったので、タオルを一度絞り直しに行く。足を拭く。スカートの中は、拭かなかった。
   背中に手を入れて癒真の身体を持ち上げ、床から布団へと移動させる。そして、上に掛布団をかけた。水は飲めるだろうか。さすがにこのまま口に突っ込むと、それが原因で命に支障をきたすかもしれない。少し悩み、ペットボトルを額に当ててみた。
   すると、癒真がゆっくりと目を開けた。
   「……れ……」
   「癒真?目が覚めたか?」
   「いうちくん……?わたし……」
   「大丈夫だ。無理しないで。とりあえず、水飲めるか?」
   癒真は目がうつろなままだが、こくりと頷いた。ぼくは、赤いくちびるに、ペットボトルの口を当てる。
   ゆっくりと傾け、水を注いだ。それを必死に飲む癒真は、力のない雛鳥のようだった。ぼくがいなければ、死んでしまうのだ。
   「っはぁ、……りがとぉ……」
   「大丈夫だから、今はゆっくり休んでいて。何か、して欲しい事とかあるか?」
癒真は、静かに涙を流した。
   「井内くん……」
   「どうしたの」
   「ありがとう。私、一人ですごく……心細くて、悲しく、て、不安で、このまま死んじゃうの、かと思った……シャワーを浴びようと思ってたのに、知らない間に倒れてた、みたいだし……」
   「……」
   「ありがとう……井内君は、私の救いだよ」
   癒真は静かにだが、涙を流し続けていた。あの日見た涙とは、違う種類のようだった。
   救い……ぼくが、救いなのか。この存在の救いが、ぼくなのか。これは、ぼくの思っていた事態より遥かに。
   ぼくは目を閉じた。
   「……まぁ、知ってる人が取り返しの付かない事になってしまうのは、気分が悪いものだしね。ずっとそんな調子だったんなら、ロクに何も食べてないでしょ。何か買ってくるよ」
   「やだ」
   強い声だった。
   「……」
   「ここにいて」
   「……でも」
   「食べるものなら、冷蔵庫にリンゴがあるから……」
   「……分かった。じゃあ、それを剥くよ」
   狭いキッチンまで歩き、冷蔵庫を開けると、確かにリンゴが入っていた。それを取り出し、流しに置いてあった包丁を使って切る。八つ切り。やっぱり、十六切り。適当な皿に乗せ、癒真の元へ。
   「食べれる?口開けて」
   小さく開いた口にリンゴを入れる。ショリ、ショリと言う音が小さく響いた。しばらくその作業を続ける。
   「……病院は行ったの?」
   癒真は首を横に振る。
   「薬は飲んでる?」
   またもや、首を横に振る。
   「飲まないの?」
   「……家にない……」
   ぼくはカバンを探る。確か、前に頭が痛くなった時に買ったものがある筈だ。
   あった。有名な総合感冒薬。
   「はい、これ飲んで」
   癒真は薬を受け取り、上半身を持ち上げて、水と共にそれを飲んだ。咽喉が動く様が情緒的だと思った。
   「……なにからなにまでありがとう、井内くん……」
   「いや、大丈夫」
   ふと背中の汗を感じ、部屋が暑いのだと気が付いた。風通しが悪く、じめじめとしている。しかし、風邪人がいる部屋で空調をガンガン入れる訳にはいかない。ぼくはブレザーを脱ぎ、ネクタイも取った。ボタンも一つ、外す。
   「しかし、こうして一人で住んでて風邪引くと、大変だな」
   「井内くんが来てくれたから、もう大丈夫」
   声に出して返事は出来なかった。
少しタイミングをずらしてから、次の言葉へと移る。
   「実家はこの辺じゃないの?」
   「うん、福井出身なの」
   「へぇ、福井。それで大学でこっち出てきて一人暮らしって訳か。……ってあれだね。大学は大阪なのに、京都に住んでるってちょっと遠いよね」
   「ああ、ここのアパートの大家さんが、私の叔母さんなの。だから、かなり安く住まわせて貰ってるの。両親としても、叔母さんのアパートの方が色々安心だしって」
   「なるほどね」
   色々と安心だし、といっても、実際癒真は色々と危ない目にあっている。まあ、子どもというものは、親の知らないトラブルに幾度も直面しているものだ。それは何人も避けられない事実なのだ。
   「癒真は、どうして今の大学を選んだの?」
   言ってから自分で驚いた。ほとんど無意識の内に自分の中から出てきた言葉だった。
   「え?」
   「いや、あのさ、ぼく今受験生な訳だから、大学について気になるなぁ、とか思って」
   一瞬キョトンとした癒真に、慌てて言い繕う。悪い事はしていない筈なのに、言い訳がましく、なにか弁解しているようだ。
   「ああ」
   ぼくは冷や汗を流していたが、癒真は特に不審に思っていない様子で、言葉を探し始めた。
   ホッと息をつくと共に、期待する。
   「私ね、すごく生きるのが下手なんだ」
   「え?うん」
   予想外の言葉に、少し戸惑った。しかし、癒真は言葉を続ける。
   「みんなの中で上手くやれないっていうかね……。流行に乗れなかったり、みんなが言うような恋愛が分からなかったり、いじめられた事もあったし、とにかく、生きるのが下手くそだったんだ」
   「……」
   「だから、どうしたら上手く生きていけるか考えたかった。だから、今の大学を選んだの。あ、言うのが遅れたけど、私の学部、社会学部なんだ。社会学って、そのまんまなんだけど、社会を学ぶ学問なの。社会を知り、調査し、見つめなおし、分析して、問題を解決する為の勉強をしているの」
   圧倒された。今までただの弱者か果実としか思っていなかった癒真が、こんな事を考えていただなんて。夢とはまた違うが、立派な目的を持って、大学に通っている。
   「……すごいね」
   「いやぁ、ま……」
   と、癒真の言葉が不自然に止まる。奇妙に思って顔を見てみると、彼女の目は何かを見つけたかのように、一点を見つめていた。そして、唇が震えた。
   「そっか。そうだったね」
   「……?」
   「井内くん、本当にありがとうね」
   大事な事を思い出したよ、と癒真は小さく呟いた。
   「いや……」
   ぼくには、続ける言葉が本当に見当たらなかった。
   癒真が羨ましかった。
   癒真は、こちらを見て、微笑んで言った。
   「井内くんは、どんな大学に行きたいの?」
   「あ……」
   何かが胸を襲いそうになったが、息を吸って吐いてみると、その脅威をあっさりと吐き出せる気がした。
   「……第一志望、東京大学
   「えっ、ほんとに!すごい」
   「第二志望、東京大学。第三志望、京都大学。第四志望、京都大学
   「……え?」
   「学部名なんて、覚えちゃいない。そこで出来る事なんて、見ていなかったんだ。……ぼくには、夢がないんだ」
   「……」
   「ただ、ランクが上だから、志望しただけ。それ以外の目的なんてない。ねぇ、ぼくなんかが大学に行っちゃいけないのかな」ゾンビだと思っていた周りの人が輝いているのに気が付いてしまって「……こわいんだ」
   「……」
    癒真は、困ったような顔をしていた、そうだよな。いきなりこんな事言われても、仕方ないよな。ぼくなんて、救いもないしな。
   「うーん……」
   下を向きそうになった時に、気が付いた。癒真は言葉を探して、必死で考えている。ぼくは、癒真を見つめた。
   「何て言ったら良いのか分からないんだけど、まず一番に私が思ったのは、すごいなぁって事。だってその大学を志望してるって言える程、今まで頑張って勉強してきたんでしょ。私、そこまで成績が良くなかったから、井内くんが輝いて見えるよ」
   「そんなの……!別に……志望してるってだけなら、誰でも言えるから」
   「でも、成績は良いんでしょ?」
   「や、まぁ……そこそこだけど……。でも、ぼくは……数学が苦手だから、それが足を引っ張って、良い判定が出ない。英語や日本史だけなら、B判定くらい出るのに」
   「すごい!その二教科が得意なんだ。……じゃあ、数学のいらないとこに進めば良いんじゃない?」
   「え?」
   「あ、あの、あんまり成績も良くなかった私の考えだし、気分が悪くなっちゃったらごめんね!あのね、私が思う事はね、苦手な事に引っ張られすぎる事はないって事なんだ。あ……まあ、私は生きるのが苦手って事に引っ張られてるかもしれないけどさ、でもこれは、解決したいものだから。とにかく、井内くんが英語と日本史が得意なのなら、今からはそれを大事にして、そこが伸ばせるとこに行けば良いんじゃないかな」
   「数学を……捨てる?」
   「あ、あくまでも私の考えだよ。もしかしたら、井内くんなら今から頑張って、数学も得意になって東京大学に行けるかもしれないよ。……でも、今さっき大学の話を始めた井内くんは、すごくつらそうに見えたから。そういう道を良いんじゃないかなって……」
    「……」
   驚きだ。衝撃が大きくて、整理が追い付かなくて、言葉が出てこない。もし、数学を受験に考えなくて良いのだと思うと、それはどれ程楽な事だろう。……だけど、それは逃げではないのか?
   「あとね、もう一個。……“すごいなぁ”以外に、私が井内くんの話を聞いて思った事ね」
   癒真は息を吸う。
   「井内くんが大学に行っちゃいけない、なんて事はないよ。今は夢が無くたって良いと思うんだ。大学って、夢を持った人が行くところなんだけど、夢を見つける為に行く人もいるんだ」
   「夢を見つける……?」
   「そう。大学では、色んな世界が見つかるの。だから夢を持って入った人でも、別の夢を見つける事もある。それでも良いと思うの、とにかく、夢に溢れている場所だから。誰に咎められる必要もない。だから、井内くんは少しでも気になった大学を志望すれば良い。ランクの高い大学でも、数学のいらない大学でも、近所の大学でも、どんなとこでも、気になったところを。そこに、夢を見つけにいけば良いんだよ」
   言い終わった後に、癒真はハッと目を見開き、そして恥ずかしそうに俯いた。
   「ご、ごめんね……つい、熱くなっちゃった」
   「いや、謝る必要なんてない」むしろ「……ありがとう」
   癒真の言葉は、次々にぼくに響いた。まだ整理ができていない筈だったが、不思議と脳内はすっきりとしているようだ。要らないものがいくつか、打ち砕かれたのだろう。
   まだ、気持ちの整理はつかない。だが、これだけは分かる。ぼくは、癒真に感謝している。
   ああ、この出会いがあって良かった。
   ぼくはズボンのポケットから、定期入れを取り出した  
   「……癒真、これ」
   「……あ、私の定期入れ!」
   「実は拾ったんだけど、持ったままになっちゃていて……返すのが遅くなってごめん」
   「謝る必要なんて、ないよ」
   癒真は手を伸ばし、笑顔で定期入れを手に取った。
   「どうもありがとう!」

2-⑶ さて、問題。ストーカーです!




   「……はい。このタオル使って良いから。中にある物も自由に使って良いよ。服は……多分ジャージなら入ると思うから探しとくよ」
   「はい、ありがとうございます……」
   高校生……井内君は小さく返事をして、風呂場へと入っていった。最初の勢いが窺えない程、大人しくなっていた。
   不思議な状況となった。
   初対面の男子高校生を家に上げ、シャワーを貸している。こんな事、あるのだろうか。水の音が聞こえてきた。    
   ああ、ジャージを探すんだった。
   引き出しを探って、ジャージを取り出す。これで良いのだろうか。果たして、サイズは合うだろうか。井内君は特別大きいと云う事は無かったが、私よりかは背が高かった。男の子に服を貸すなんて、勿論初めての事なので、勝手が分からない。
   少しの間悩んだが、これ以外に貸せるものもないので仕方ない。ジャージを持って、風呂場へと向かう。こっそりと様子を窺い、相手がまだシャワー室にいる事を確信して、入り口にジャージを置く。脱いであったシャツとズボンを回収しようかと思ったが、緊張して手に取れなかった。
   居間に戻る。と、ドアが開く音。たった今出てきたようだ。ぎりぎりセーフだった。もし私がいる時に出てきていたら……。想像してもぽわぽわとした何かと恥じらいしか出てこなかったので、頭を振ってイメージを止める。しかし、脱衣所から聞こえてくる布の擦れる音が、私の顔を赤くさせたままだった。
   程なくして、井内君が居間に現れた。風呂あがりの男の子(父親は除く)を見るなんてはじめてで、少しドキドキとした。
   「シャワー、ありがとうございました……」
   「あ、いえ、あの、」
   ジャージのサイズについて聞きたかったが、上手く言葉を成せなかった。直視は出来ないが、着られているようだし、おそらく大丈夫なのだろう。そう信じたい。
   束の間の静寂。
   「えと……」
   「あの……」
   切り出した言葉が重なってしまった。顔が熱くなる。
   「あっ、えっ、す、すいませ、な、なんですか」
   「あ、いや……アンタはシャワー浴びないのかな、って思いまして……」
   井内君は、私を眺めながら言う。その視線につられて、ようやく自分の姿を確認した。全身どろどろで、汚らしい。途端に、恥ずかしくなった。
   「あ、の、私は大丈夫だから!着替えてくるだけ、着替えてきます!」
   適当に服を引っ掴んで、風呂場へと駆ける。脱衣所に立ち、汚れた服を脱ぎ去る。
   と、その時に思った。男の人がいる近くでこんなに無防備に裸になって、大丈夫なのか。何かあったらどうするんだ。居間の方の気配を窺う。
   すぐに、思い直した。何考えてるんだ。私なんかが、男の人といたところで、どうなる。何かあるはずがない、じゃないか。下着を外した。脱いだ服をまとめようとして、スカートが目に入った。驚く程汚い。少しだけ、目が潤んだ。
   鏡で身体を見てみると、とても汚れている。しかし、着替えてくるだけと言ってしまった。あまりに戻るのが遅いのは、いけない。私はタオルを濡らし、身体を拭いた。髪にすこしだけお湯をかける。顔はじゃぶじゃぶと洗った。
   早く戻らなければ。下着……も随分と濡れてしまっているが、新しい物を取ってくるのを忘れていた。もちろん、この状態で居間に取りに行く訳にはいかない。
   ……仕方ない。もともと、付けていたものだし、少しくらい良いだろう。雨に犯された下着をつけると、身体の芯がひんやりとした。
   服を着る。これで問題ないかと鏡を見て、慌てた。濡れた下着が透けてしまっている。急いでドライヤーで服の上から乾かす。急げ。急げ。相手に不審に思われないようにしなくては。熱風が身体を這う。
   ある程度乾いたと思われるところで、タオルをかけておけばいいのだと思いつき、新しいタオルを肩に掛けて、急いで居間へと戻った。時間がかかってしまった。
   「あ……おかえりなさい」
   「ど、どうも……ただいま」
   そこには、男子高校生の姿が変わらず在った。分かっていたはずなのだが、心臓には動揺が走った。自分の部屋に男の子がいるなんて。
   どういう顔をすれば、どういう言葉を発すれば、どういう姿勢でいればいいのか何もかも分からず、私はただ立っていた。言葉は出ないままなのに、無駄に笑顔を作ろうと努力してみたりしていた。一方、井内君は座っていた。言葉は何も発せず床に座り、どこかを見つめていた。何を見ているのだろう。視線は少しずつ、動く。ゆっくりと動く。その様子は、ぼーっとしているだけな訳ではないように思える。
改めて良く見てみると、綺麗な顔立ちだと感じられた。
   こうやって男の子の顔を見つめる機会なんて、滅多とないから、この顔立ちが平均以上なものか否なのか分からないのだが。高校三年生だったか。とすると、二歳下になるのか。
   “――この一週間と少し、アンタの事をストーキングしていました”
   相手の告白を思い出し、ドキリとする。そうだ。そうなのだ。
   二人して全身ずぶ濡れの泥まみれで乗った電車。その中で、井内君はぽつり、ぽつりと話した。ここ数日の話。今日抱いたという感情のあらまし。私は彼の告白を静かに、聞き遂げた。そして何故か、本当に何故か、私も話していた。これまでのみじめな自分。赤い花。初めて会った筈なのに、自分の抱えていたものが、するすると話せた。みじめさのあまり、涙は溢れたが、私は話した。井内君はそれを静かに聞いていた。
   そして……今日の絶望は、まだ話していない。それを告白するには時間が足りなかったし、覚悟もできていなかった。そうして駅に着き、コンビニで傘を買い(どう考えても今更な行為だったが、気持ちの問題なのだ)こうして家までやってきた。
   井内君は、既に私の家を知っていたらしい。ストーカーってすごいんだな、と感じた。
   いざ家に着いてしまうと、服を拭いたりシャワーを貸したりとで、会話が途切れてしまい、気まずい空気となってしまった。そう感じているのは私だけなのかもしれないが。
   ……彼に対して、自分がどういう感情を抱いているのかが、分からない。
そもそも、彼はストーカーだ。私を一週間以上ストーキングしていた。大学も、家も、名前までも知っていた。十分に恐るべき条件は揃っている。
   だが、その条件で相手を恐れるのは、普通の女の子だろう。可愛くて、輝いていて、きらきらと幸せな女の子。私はというと、その話を聞いた時に胸を高鳴らせた。私をストーキングするという事は、つまり私に興味を抱いてくれているのだ。私に対して、女に対する興味を抱いている。そう考えると、涙が出そうにもなった。絶望に在った私を引き上げてくれるかのような告白だったのだ。
   しかし、その感情よりも前にあったのは、同調だったのだと思う。彼の涙が、死に瀕していた私の心を、再生させた。あの時私と同じように雨に犯され、泥にまみれ、涙を流していた彼に強いシンパシーを感じたのは事実だ。
感じたのは、シンパシーだけではない。私を止める声。彼の必死な叫びが、文字通り私の命を救ったのだ。彼には感謝すべきだろう。
   ところが、その後に私に向かって話す彼はとても弱弱しく、今にも倒れてしまいそうなのであった。まるで、これまで救いを求める旗を振り回して、振って、振り続けたが、一向に救いが来ないから疲れ果ててしまったようだった。
   彼は、何なのだろう。私は彼を、どう思っているのだろう。彼は、私をどうしたいのだろう。
   分からない。分からないけど、今感じる事はあった。
   彼は、今の私に必要なのだ。
   「……あのさ、井内君」
   井内君は、視線をこちらへと向けた。酷く疲れたように見えた。きっと私も、似たような目をしているのだろう。
   「何ですか」
   「電車の中で、言い損ねた事。今、話したい事があるんだけど……良いかな?」
   井内君は私をじぃっと見て、黙って頷いた。
   私は……話し始めた。
   今日抱いた絶望。自分の思い上がり、勘違い。不相応だったスカートに、似合わない化粧。望むだけ無駄な恋。かつての聖母。光。奈落に落とされた心地。これまでの大学生活の崩壊。
   何かの栓が抜けてしまったかのように、涙が溢れ出して止まらない。二度と笑えない、泣けない、心が動かないと感じた絶望を、嗚咽混じりに話す。話す。溢れ、零れる。
   途中から意識せずとも、言葉が零れてきた。思考が追い付かないままに、次々に言葉を吐き出す。
   そうして、私にこびりついていたものを語り終えた。どのくらいの時間話したのかは、分からない。その間、井内君はじっと黙って、真剣な眼差しをして、聞いてくれていた。語り終えた後も、私は泣いていた。
   「……こうやって泣いている女を、励ます事はできないんだけど」
   みっともなく涙を流し続ける私に向かって、井内君は言葉をかける。
   「ぼくは、ぼくに出来る事をしようと思う、んです。これはきっと、人間としては、男としては、間違ってるのだと思う」
   「……間違ってる?」そんなの。「これまでもずっとそうだったよ、私たち……」
   「そうかもね。でも何が間違いって誰かが勝手に決めてるんじゃないのか。ぼくたち、それに振り回される必要なんて無い」
   その言葉には、重みが感じられた。
   「……」
   「だから、ぼくに出来る事」
   井内君は大きく息を吸った。
   「とんでもなくダサいアンタに、女の魅力を上げる方法を、アドバイスする」
   まさかと言えば、まさかの言葉だった。
   でも、それは確実に私に必要なものだ。
 
 
   「まず、あのスカート。赤いスカートあったじゃん。アンタにとっての花なんだっけ」
   「……うん」
   とんでもなく恥ずかしい筈だったか、何故か向き合えた。
   「あれを穿いてるとこ、見たけどさ。そのスカートの良さを引き出せてないってか、すっごいバランスが悪かった。何でか分かる?」
   「そ、それは……私が、お姉さんじゃないから。私が、私だから」
   「それは違う。半分違う。良いか、バランスが悪いって言ったんだ。スカートが他と合っていない。つまり、スカートは洗練されているのに、スカート以外はダサいんだ。ぼくも女の子のファッションなんてそこまで分からないけどさ……なんでスカートに気を回したのに、上の服とか、靴とかは意識しなかったの?」
   「あ……」
   まさに、目からウロコだった。
   「パソコン持ってる?」
   「あ、うん」
   「貸して。起動させて」
   「あ、うん」
   パソコンを引っ張り出し、電源をつける。井内君は画面を自分の方へと向けた。しかし、すぐに私の方へと戻した。
   「パスワード」
   「あ、はい」
   私は言われるがままに動く。パスワードを入力すると、井内君は画面を再び、自分の方へと向けた。カタカタカタ。パソコンを触っている人間は、すぐそばに居ても、何故かとても遠くに感じてしまう。
   「これ」不意に、画面が私の方へと向けられた。「こういうの、着ないの?」
   画面に映るのは、ふんわりとした可愛らしい服。着ているのは、とても可愛いお姉さんたち。
   「これは……私には、似合わないよ」
   「あっそ。あんな短いスカートには手を出す癖に、他の挑戦はできないんだね。そんなんだから、いつまで経っても中途半端で、中学生みたいにダサいんだよ」
   ぐっさりと、井内君の言葉が刺さった。と、共にムッとした。
   「……やっぱり着る」
   「着んの?アンタには似合わないんじゃないの?」
   「着てみないと分からないもん。着るって言ってるの!」
   言った直後に、心がひやっとした。勢いに任せて大きな声を出してしまった。せっかく私にアドバイスをしてくれようとしているのに、怒らせてしまう。
   「ふぅん。そうだよね、着てみないと分からないよ。じゃあ、買うね」
   井内君は私の想像より、冷静なリアクションをした。良かった。……って 何て?
   「え、買う?」
   「当たり前でしょ。買わなきゃどうやって着るのさ。アンタ、サイズ何?」
   「Mだけど……」
   「ふぅん、じゃあこれとかかな」
   「ちょ、ちょっと」
   「こういうのも良いんじゃない?」
   「ちょっと待って!」
   またもや、大きな声を出してしまう。だが、さっきのようには焦らなかった。
   「なに」
   「私が着るから、私も選ぶ」
   はっきりと、言った。しっかりと井内君と目が合う。三秒。
   井内君は、画面を調節し、二人ともが見やすい場所にした。
   「そう言ったんなら、変に尻込みすんなよ」
   何故かその言葉が面白くて、私は真剣な顔をしながら、心の中で吹き出した。さっきまでの弱弱しかった井内君とは、別人のようだ。あ、最初はこんな感じの勢いがあったっけ。
   それに、別人のようというなら、私もだ。人の言葉に腹を立てたり、強い言葉で自分の意見を言ったりなんて、どのくらいぶりだろう。
  二人で画面を見つめ、服を選んだ。井内君の力に押されると、私もどんどん勢いづき、次々にカートに商品が溜まっていった。
   「結構選んだね」
   「こんなもんかな」
   「い、いくらくらいになったんだろう……」
   「今更、金の心配かよ。これから人生が変わんだぞ。バージョンアップできる値段と思えば安いだろ」
   「バージョンアップ……」
   その言葉も面白くて、私は思わず笑ってしまった。井内君は不審そうな目をしたが、つられたのか、少し笑った。
   でも、大事な事だ。
   私は、バージョンアップできるのだろうか。みじめな私から、変われるのだろうか。
   「あ、もうひとつ」
   びしぃっと井内君の指が私の方を指した。
   「な、なに?」
   「バージョンアップしたいんだったら、その野暮ったい髪切れ。なんだよそのぼさぼさな髪は」
   「こ、これは……今、雨で濡れた後だから」
   「いつもそんな感じだけど?ばっさり切ってすっきりしてしまえよ」
   「で、でも……」
   フッと感じた。この“でも”が今まで何度私を停滞させてきただろう。動くなら、今なのだ。
   私は、鋏を取り出す。
   「おい、何も今ここで切れって言ってるんじゃないけど。美容院に予約いれてさ」
   「良いの」私は首を振る。「今、ここで切りたいの」
   井内君は私を見つめ、ふぅんと呟いた。
   「……良いじゃん。だったらせめて、新聞紙か何か敷きな」
   私は頷き、適当な紙を広げる。
   机の上に鏡を置く。映るのは、ぼさぼさで汚らしく、みっともない私。
   さよなら、私。これまで良くがんばったね。おつかれさま。
   私は、しがらみを切り落とした。
   耳に響く鋏の音は、心地良かった。
   「おー……、結構いったな」
   「左も切るよ」
   もう一度鋏の音がして、頭がすっと軽くなった。こんなにも軽くなるなんて。
   私は、井内君に顔を向ける。
   「どうかな?」
   「んー、ちょっと右の方が長いかも」
   「ほんと?じゃあ、ちょっと切ろう」
   「あー、切りすぎ切りすぎ。今度は左が長い」
   「え、じゃあ」
   「ちょ、また切りすぎだって。アンタ少しは鏡見て切れよ!」
   「え」
   私は、鏡を見た。息をのんだ。
   これが、私か。
   まだ少し濡れてはいたが、それでも元より断然すっきりとしていた。
   私は、井内君を見る。私は、ぱちくりとした目をしていたのかもしれない。彼は、何だよその表情と言って吹き出した。
   私も面白くなって、そうして二人で声を上げて笑った。
   爽やかな空気が流れていた。
 



 
   外に出ると、あれだけ激しかった雨はすっかり上がっていた。
   駅まで送ると言う癒真を制止し、一人で靴を履く。
   「それじゃ、また」
   自分の言った言葉に失笑する。まただってさ。まるで、当然のように次があるという挨拶だ。
   後ろを確認してから階段を下り、アパートの横に周る。ついさっきまで居た癒真の部屋の部屋側。
   窓を見つめる。しかしそこには何も映し出されなかった。ぼくは、目を閉じる。すると、そこに癒真の部屋が映し出された。想像通りの狭いシャワールーム。脱衣所にひかれたやけに鮮やかなタオル。低い机。壁にかけられたカレンダー。積まれた本。ありありと、浮かんだ。今頃何をしているのだろうか。身体が冷えたままだっただろうから、きっとシャワーを浴びているだろう。
   ぼくは、現実の癒真の部屋を手に入れた。代わりに、想像の中で広がる癒真の部屋を失った。これは喜ぶべきか否か。……喜ぼう。現実の癒真の部屋の中での癒真の行動が、想像の中でリアルに広がるじゃないか。
   そして、だ。癒真は今日、確実に変革した。ぼくが助長した。さて、この事でかつての癒真は失われたのか。ぼくは、喜ぶべきか否か。
   ぼくは、空を見上げる。夏の気配が近づくと共に、日の入りが遅くなってきた。それでも、空は既に暗い。ぼくは、目を閉じる。
   ……ぼくは、喜ぼう。
   瞼の下には、癒真のスカートの下が浮かんだ。中学生のような下着。それに、クローゼットに入れられたダサい下着。癒真が脱衣所に行っている間に、クローゼットを開けたのだ。服は少なく、下着の棚はすぐに見つかった。ぼくはその光景を、目に焼き付けて脳に保存した。
   ぼくは、癒真に色んなアドバイスをした。服を提案した。靴を探した。髪を切らせた。化粧の事は全く分からなかったが、一緒にサイトを漁って良い方法を探した。化粧水や乳液についても調べた。近いうちにあのドラッグストアに走って、色んなものを買い求めるだろう。
   だが、下着については全く触れなかった。癒真の脳にその事が浮かばないように、他の事で夢中にさせた。
   これから、癒真は美しく変わるだろう。美少女までとは言わないが、自信とある程度の正しさを身につけた女は、見違えるようになるだろう。それでも。それでも、進化した癒真のスカートの中には、あの下着があるのだ。ぼくが変革させた女の魅力の内には、ぼくだけが知る秘密。秘めたる滑稽さ。大丈夫、誰にもバレやしないよ。アンタはこれから、自信を持って笑えば良い。
   大丈夫、ぼくの禁断の果実は健在だ。真っ赤な花の下に密やかに実をつけている。
   堪え切れずに、笑みが零れる。
   スマホを取り出して時間を確認すると、二十時を過ぎたところであった。 母親からメールが来ている。
   〈今日は何時に帰れるの?〉
   返信。
   〈二十一時までには家に着くよ。これまで、心配かけてごめん。これから頑張るよ〉

2-⑵ さて、問題。ストーカーです!


   お昼ごはんを食べた。とても美味しかった。
   おなかいっぱいになったので、少し眠い。あくびをすると、目がピリ、と痛んだ。指で涙を掬う。
   次の授業まで、まだ時間がある。何処に行こうか。いつもならこういう時にはすぐに図書館へと向かうのだが、今日は何だか散歩したい気分だ。空はまだ曇っているが、心は晴れやかなのだ。
   ひとまず、中庭を散歩しよう。赤いスカートを揺らしながら、闊歩。ひらりひらり。
   と、正面からクラスメートの女子が二人歩いてくるのに気が付いた。一年次生の頃は良く話した子たちだ。
   向こうも私に気が付いたようだ。こちらを見て、表情を変える。えも言えぬ表情だ。どうしてだろう。……ああ、このスカートか。
   どちらかというと地味なジャンルに分類される二人には、このスカートは少し刺激が強かったのだろう。ごめんね。私はもう、変わってしまったの。私は、お姉さんになったの。軽く手を上げると、二人は軽く頭を下げた。えも言えぬ表情をしたままであった。
あなたたちも変われれば良いね。
   さらに歩いていると、冷たい感触が腕に当たった。雨が再び、降り始めてきたようだ。その時に、朝は持っていた筈の傘を持っていない事に気が付いた。どこだろう。朝の授業の教室に忘れたのか。
   雨が強まってきた。傘を取りに行かなければ。二限の授業があった一号館まで走る。授業の教室は……三階だった。階段を上がる。踊り場。上がる。二階。上がる。踊り場。上がる。足を止める。
   話し声が聞こえてくる。誰かがご飯でも食べているのだろうか。
すぐに、思い出した。この声は、まーくんの声だ!
   まさか、こんなに続けてまーくんに会えるだなんて。声もかっこいい。あの声を近くで聞きたいな。一つの傘に二人入る姿を想像した。傘を持つまーくんが、雨から私を守ってくれる。二人の距離は近く、互いの体温を感じる。そして、私の耳元でまーくんが愛の言葉を囁く。
   ああ、まーくん!
   駆け出そうとした私の足は、すぐさま止まる。たった今聞こえてきたまーくんの話し相手の声にも、聞き覚えがあるのだ。これは……弘菜の声だ。
   「もー、正俊ったら」
   楽しそうに、笑う。二人の笑い声は、何故か私には優しい響きに聞こえなかった。
   「あ、また降り出してきたな」
   「ホントだー。もー、やだぁ。傘ちっちゃいから濡れちゃうんだよね」
   「折り畳みじゃない傘買えよな。ん?ここに傘の忘れもんあるじゃん」
   「あ、ホント。借りちゃおっかなぁ。……ってあれ?これ癒真の傘じゃん」
   「え、そうなんだ。忘れてったんだね。ってか、癒真ちんと言えば、どうだったのよ」
   「あー、あれね。マジでウケるよ。“私、まーくんの事が好き!”って言ってたよ」
   「ぶふぉっ。マジで~?やっぱりねぇ、そんな気がしてたんだよ。何か俺の事好きな女の子って分かっちゃうのよね」
   「私の事も分かったのー?」
   「うんまぁ、それで、お前の魅力に見事に捕まっちゃったかな」
   「もー、正俊ったら」
   笑い声。楽しそうな二人の声は、私を嘲笑っていた。
   身体が、急速に冷え渡る。
   「で、他に何か言ってた?」
   「えっとねー。“弘菜もあたしと一緒にがんばろうね!”とかかな」
   「うわー、何それ。マジ笑えるな。ってかお前さっきから声マネに悪意ありすぎ。まずそこにウケんだけど」
   「“まーくん、だいちゅきちゅきー”」
   「ぐふぉっ、やめろやめろー」
   「これ今後持ちネタにするわ。ってかさ、あんな女の分際で正俊の事好きって言うとか、ちょっと調子乗りすぎよね」
   「まぁな。クソ程に俺の好みじゃないわ。ってか今まで好きとか言ってきた女の中でも最低ランクだわ。合コンの日、結構びびったもん。その後に思ったけどね。ああ、これが所謂、頭数合わせの引き立て役か、って」
   「まさにその通りだわ。色々便利なのよ、あの子」
   「ひでぇ奴だな」
   「アンタもさっきからなかなか言ってるじゃん」
   「ははは」
   「ふふふ。それにしても、またウケるのがあのスカートよね。いやもー、正直目の前にして、いつ突っ込もうか突っ込もうか耐久戦よ?」
   「よし、じゃあ今突っ込んでみ」
   「なになにどーしたのそのスカート。ん?色気づいたの?そうなの?春が来ちゃったの?うんうん、えっとね、ぜんっぜん似合ってねぇんだよ、カーーース。鏡見たか?え?コーディネートって知ってる?何そのだっさいTシャツ。中学生ですか?髪型ものすごい事になってるけど、ブラシ持ってるの?靴下と靴も、中学生ですか?あ、これ二回目だったね。まあ良いや。大事な事は良く伝えた方が良いもんね。そんな中学生クソガキなお前が、何色気づいて足曝け出してんだよってなー!ネタ?ねえ、それネタなの?うんうん、大丈夫。すっっっっっごく面白いよ!あ、でも何よりもウケるのは、その顔面な。目すごい事なってますけどどうしたの?寝不足なの?パンダなの?歌舞伎なの?え、もしかして、それが化粧なの!?ちょっとその辺りの子どもにお絵描きの仕方教わってきたらどうですかー!もう本当にね、本当にアンタのその顔と向き合って笑わずにいるの、大変なんだから、ふ、ふは、あはははははははは」
   響き渡る弘菜の笑い声。まーくんの笑い声も重なる。あはは。はは。なんだこれは。これが弘菜か。弘菜、弘菜は。
   頭が凍りついたようで、思考が上手く働かない。身体も同様に凍りついている。
   弘菜が、弘菜が笑っている。聖母が私を嘲笑う。私の光だったまーくんと共に、声高く笑う。私は心など身体の中にないように、ぼうっとしながら二人の会話を聞いていた。しかし、その会話は、ない筈の心にしっかりと届いている。
   いっそなくなれ。
   いっそなくなれ。
   いっそ、消えてしまいたい。
   どうして私はここにいるんだろう。
   どうして私はこんなんなんだろう。
   私は?
   私の意識は、壁に。
   私の意識は、天井に。
   私の意識は、空中に。
   笑う二人を見つめる。二人は、悪くないよ。二人は、洗練された存在だから。
   私を見つめる。空中の私が、私を見つめる。私が、悪いね。私が、私だから。
   このままふわふわふわ、飛んで行ってしまおうか。それとも、地に沈もうか。誰とも関わらず、誰にも迷惑をかけず、誰からも傷つけられない世界へ、飛ぼう。沈もう。さようなら。私はなんでもない。私は、なんでもない。
   「あ、そろそろ行こっか」
   しっかりと、私の耳に届いた。それがスイッチだったかのように、私は冷たい汗をかく。ぶわぁっと全身に。やばい。二人がここを通る。
   そう考えたのが先か身体が動いたのが先か、とにかく私は転げ落ちるように階段を下りた。ああ、やっぱりこの身体は私のもので、私の意識はここに根付くのだ。ばたばた、飛んで、落ちる。駆け落ちる階段。途中足が滑って転んだが、すぐさま起き上がり、また落ち始める。そうして、外へ飛び出した。駆ける。雨が私の身体を叩く。悔い改めよ。神に背きし思い上がり。罪深き勘違い。
   泥の滑りに足元を掬われ、転ぶ。ぬかるんだ地面に倒れこむ。
   さっきのようには、起き上がれなかった。
   「うあ、うあああああああああああああ」
   大声を上げた。
   涙があふれた。
   身体が痛んだ。
   感情の爆発だ。
   これは、心の断末魔だ。引き裂かれて、ばらばらになってしまうんだ。
   心が消えゆこうとしているのに、どうして身体は生きているんだろう。
   矢の如き雨が絶えず私の全身を叩き続ける、悔い改めよ、悔い改めよ。
   今や私の心には光などは存在しない。あるのは、純真たる絶望のみだ。
 
 
   チャイムが鳴る。二限の授業が終わった。
   周りのゾンビたちが、ノートを閉じ、カバンの中から参考書を取り出す。単語帳を取り出す。ぼくはと云うと、そんな気にもなれなかった。教室ゾンビ復帰には、まだもう少しリハビリは必要なのかもしれない。ぼんやりと、机に広げられたノートを眺める。先ほどの授業の内容が、きっちりと書かれてある。こんなもの、単純作業だ。黒板に書かれた情報をノートに再生するだけの簡単な作業だ。そうして作られたノート。眺めていても、授業内容は思い出せなかった。
   カリカリカリ、シャーペンの音が響く。ペラペラペラ、ページをめくる音。周囲の音がぼくを脅かす。心が揺れる。胸をぐっと押さえた。
   吉留の席を見ると、奴は机に突っ伏して寝ていた。数学の教科書を枕にしている。
   ハッとその時、気が付いた。隣の席を見る。英語の参考書を開きながらも、机の上には数学の教科書をスタンバイ。斜め前の奴。単語帳をめくりながら、数学の教科書をスタンバイ。斜め後ろ。数学の教科書をスタンバイ。
そうだ。月曜の三限は、数学なのだ。
その事を思い出すと共に、チャイムが鳴り、同時に教室のドアがガラン、と開いてハゲ教師が入ってきた。
   一週間ぶりに見る山田は、何も変わっていなくて、うんざりとした。ハゲ頭も、睨みつけるようなギョロ目も、腕に抱えた分厚いファイルも、チャイムと共に入ってくる様子も。
   そして、教卓に立つと共に、大声を上げる。
   「はい、君たちさっさと数学以外のモン仕舞ってください。今からは、数学の授業です。時間は正しく丁寧に使いましょうね」
   山田にそう言われた時には既に、教室ゾンビたちは机の上を数学の授業スタイルにしていた。山田の登場セリフは、いつもの事なのだ。目をつけられたら、非常に厄介。
   ぼくも慌ててノートを仕舞い、数学の教科書とノートを取り出す。だが、その動きが目についてしまったようだ。山田がこちらを見る。ギョロ目。やばい、狙いを定められた。
   「ん?そこでごそごそやってんのは、井内じゃないですか。随分久しぶりですね」
    隣の席の奴がちらり、とこちらを見る。ぼくを憐れんでいるのだろうか。ぼくは息を吐く。あ、これは良く見たら、英語のノートだった。そいつを仕舞い、数学のノートを取り出す。
   「おい、井内。いつまでごそごそやってるんですか。僕の話を聞いていますか?随分とお久しぶりですね、って言ったんですよ」
   「……はぁ、お久しぶりです、ね」
   「一週間も休むなんて、随分と余裕ですね。勉強ははかどりましたか?」
   正確には、一週間まるまる休んでた訳じゃないけどな。先週の月曜の火曜の水曜も、遅くはなったが学校には来た。お前の授業には行かなかったけど。
   「勉強ははかどりましたか?」
   繰り返す山田。
   「はぁ」
   とりあえず、返事をしておく。数学の時間なんじゃないのかよ。時間は正しく丁寧に使え。
   心の中で悪態をつくぼくに、山田は言葉を続けた。何の期待もしていない目で、言った。
   「じゃあ、課題を出してください」
   「か……」
   内臓に冷たいものが流れ込むような心地で、ぼくは机を探る。時間をかけ、そしてプリントの束を出す。眺めてみるが、もちろん白紙だ。いや、問題文はあるのだが、シャーペンの文字は一切ない。
   「どうしたんですか?提出してください」
   「すいません、まだできてません」
   「できてない?」
   「はい、実はこのプリントが机の中に入ってる事にも今気が付いて……。ほら、ぼくずっと休んでたじゃないですか。だから……」
   バァン、と音が響く。山田が教卓を分厚いファイルで殴りつけたようだ。
驚きで一時停止させられてしまった言葉は、再び再生する事はなかった。
   「そんなクソみたいな言い訳は、聞いてません。良いですか?僕が確認したいのは“お前が課題をやってない事”“数学の成績がクソな劣等生な癖に、僕の授業を一週間もサボった事”ですよ」
   山田の目がギョロギョロ、と動く。怒っている証拠だ。
   何人かの教室ゾンビたちが、こちらに視線を送った。ちくしょう。いちいちこっち見るなよ。黙ってカリカリ勉強しとけよ。
   「良いですか、みなさん。今からとても大事な事を話します。まず君たちが知っておかなければならない事。受験は戦いです。はっきりと、勝ち負けが分かれます。勝ち組になりたいですか?なら、今勉強しろ。負け組になりたくないですか?なら、今勉強しろ。このクラスに、劣等生の癖に一週間バカンスを楽しんだ奴がいるな。あいつの休息が羨ましいか?なあに、羨む事など何もない。がんばる君たちの将来は安泰、いくらでもバカンスができる。劣等生の癖にサボった奴は、将来血反吐まみれの生活を送る。ただ、それだけだ。分かりましたか?じゃあ、数学の授業を始めます」
   顔が熱い。全身の血が頭に上り、沸騰する思いだ。なぜ、みんなの前でここまで言われなければならないのだろう。ぼくが劣等生?今までがんばって、がんばってきたぼくが劣等生?劣等生なのか?ルートから外れているのか?
   熱が目頭に集まってきた。教室はというと、ぼくなんてほっといて数学モードに入っている。さっきまで無理やり舞台に立たせておいて、急に部外者扱いか。ちくしょう。ふざけんな。山田は「無駄な時間を使わせやがって」とかぶつくさ呟きながら、黒板に公式を書いている。ふざけんな。
   山田を殴りつけたい、と思った。あの目を二度とギョロつかせられないようにしてやる。みんな驚くだろう。ぼくが突然席を立ち、まっすぐと教卓まで歩き、思いっきり山田の顔面を殴る。殴る。山田は悲鳴を上げて、みっともなく助けを求めるかもしれない。みんなはどうするだろう。山田はあまり好かれていないだろうから、誰も止めないかもしれない。ざああみろ。山田がいつも持ち歩いているファイルを使うのも良いかもしれない。あの分厚いファイルでガツン、だ。それで悲鳴が止まるかもしれない。いい気味だ。そうしたら流石に、誰かが騒ぐかも。山田の代わりに、悲鳴を上げるかも。そうしたら、そいつをファイルでガツン。次に騒いだ奴のガツン。ついでにその隣にいた奴もガツン。ガツン、ガツン。ある程度ゾンビたちを倒せた頃に、岡元が教室に駆けつけるだろう。何してんだ井内、やめなさい。とか言う正義面を、メガネごと吹っ飛ばす。その辺りで宣言しよう。良いかお前ら。この学校はぼくが占拠する。ここに巣食うゾンビ共を、ぼくがみんな退治してやる。助けてやるぞ、お前ら。覚悟しろ。ぼくの手には、散弾銃。ぱららららららら。いい気味だ。辺りを見渡す。もう、ぼくを脅かすものはない。と、教卓辺りで何かが動いている。山田だ。血を流しながら、叫ぶ。「劣等生の癖に!」金属バットで殴りつける。山田は音を立てて崩れ、消え去った。ドア付近で岡元が叫ぶ。「大人しく勉強しろ!」金属バットで殴りつける。岡元は崩れ、塵となった。教室中で叫び声がする。「授業妨害やめろ!」「目障りなんだよ!」「なに学校さぼってんだよ!」「当たり前みたいに遅刻してくんじゃねえ!」「俺たちはがんばってんだよ!」殴る。殴る。殴る。金属バットを振り回す。殴る。殴りつける。みんな消えろ。ぼくだって、ぼくこそが、ずっとこれまでがんばってきたんだ。がんばって、がんばって、がんばってきた。なのに、どうしてだ?なんでなんだよ?どこからか、母親の声がする。「衛の為なの……」金属バットを振る。ちくしょう。ちくしょう。なんでなんだ。誰か、だれかぼくを助けてくれ。お願いだから、助けてくれ。周りで踊るアルファベットを殴り続けた。砕いても、砕いても現れる。涙を流しながら、武器を振り回し続けた。いつしか、金属バットは形を変え、得体のしれないふにゃふにゃとした物となっていた。ぼくは泣きながら、腕を振る。武器はふにゃり、と揺蕩うのみ。アルファベットを砕けない。ゾンビの声がする。迫ってくる。このままでは、押しつぶされてしまう。ぼくは、役に立たない武器を放り捨てた。悲鳴を上げる。ぼくには、なにもない。ぼくには、なにもないのか?
   チャイムが、鳴り響いた。山田が教室から出ていく。結局ぼくは、山田を殴る事はおろか、この場から動く事すらできなかった。そんなものだ。
机の上を見ると、知らない間にプリントの束があった。どうやら、今回の授業で配られた課題らしい。
   「木曜日までに提出、だってよ」席の前に吉留が立っている。「大丈夫か?」
   大丈夫か。大丈夫ではない。
   ぼくは立ち上がる。頭がくらり、とした。
   「おい、衛?」
   「そうだ、ぼくも手に入れたものがあるんだ……なにも、ないわけじゃない」
   カバンを手に取り、机の上にあった筆箱を突っ込む。紙の束はいらない。
   「衛!」
   「体調が悪いから、早退した……岡元に何か聞かれたら、そう言っといてくれ」
   そうして、走り出した。吉留の声も、教室ゾンビたちの目線も脳には伝えない。こんなところにはいられない。
   早く会いに行こう。ぼくの果実に。
 
 
   みじめな私は、ふらふら歩く。
   身体に力が入らない、意識は朦朧としている。
   それでも、ぜんまいが巻かれた人形のようにふらふらと歩き続けていた。それは目的も、意思もない動きだったが。
   雨に打たれ続けて、身体が冷たい。だが、別段気にならなかった。どうせ風呂に入ったり、暖かい服を着たりしても、この心臓は冷えたままであろう。ああ。私の心が再び動き出すことはあるのだろうか。再び脈打ち、全身に力を与えることなど、あるのだろうか。
   ……考えるまでも、ない事だ。
   自分の身体を見ると、泥まみれだった。私に良く似合っている。花も茶色く汚れ、二度と日の下で咲き誇る事はないだろう。
   水が髪から滴り、顔を濡らす。目がピリピリと痛み続ける。ようやく、気が付いた。化粧品が侵入し、痛みを引き起こしているのだ。なんだ、滑稽だなあ。雨と涙と汗と鼻水と化粧品とでぐちゃぐちゃになった私の顔は、相当酷いものだろう。化け物よ、こんにちは。
   時折すれ違う人が、私に奇異な眼差しを送る。ごめんなさい。こんなものを見せて、ごめんなさい。すぐに、どっか行きますから。
   あれ、私は何処へ行くのだろう。地獄だろうか。
   みじめな私は、ふらふら歩く。
身体に力が入らない、意識が朦朧としながら、頭の隅でくだらない事を考え続ける。
   ぜんまいが巻かれた人形は、どこか異常を抱えていた。じきに壊れ、動かなくなるだろう。今は、目的も意思もなくふらふらと歩く。
   雨に打たれ続け、身体が冷たい。ふと、顔を上げると、視界に入った。くっついて歩く男女。脳がぼんやりと認識した。弘菜とまーくんだ。まーくんのものなのか、彼が紺色の傘を持ち、弘菜の肩を抱いて彼女を雨から守る。顔を寄せ合う二人は笑って、とても幸せそう。
   光の国の住人の二人は私などには気が付かず、通り過ぎてしまった。
   なんだ、なにも思わないや。やっぱり、心が死んでしまったんだな。
   水の強い音がする。雨とは別の物だ。音の方へ進むと、川があった。
   凄まじい、様子だった。降り注ぐ雨で増水したようで荒れ狂い、薄茶色い水が色んな物を流している。これはもしや、コキュートスだろうか。ならば、私はここへ流れるべきだろう。私は何を裏切ったか。私は、弘菜を裏切った。私は、周りの人を裏切った。私は、私を裏切った。思い上がりが、自身を偽ってすみませんでした。
   私は、橋の欄干に足を掛けた。
   「やめろ!」
   響く声。麻痺した脳は状況に追いつけない。何者かが、私の身体を掴み、引っ張った。強い力によって、私は地面に倒れこむ。相手を視界で確認する。ブレザー。高校生だ。
   「死ぬな!なんでだよ!アンタが死んでどうする!やめろ!生きろ!」
   高校生は訳が分からない事を叫びながら、私の身体を揺らす。なんだ。どうした。この状況はなんなんだ。この人は誰なんだ。どうして、私なんかに生きろと言うのだろう。
   理解不能な状況な中、私は目撃する。高校生は私に向かって叫びながら、泣いていた。降りしきる雨の中、私と同じように傘もささず、泥と雨と涙にまみれている。
   「頼むから、死なないでくれよ……。アンタがいなくなったら、もう終わりなんだ」
   「……どうして?」
得体の知れない高校生の涙は、何故か私の心へと届いた。
 

2-⑴ さて、問題。ストーカーです!




第二章「シンキングタイム」
   今日も赤のスカートだ。
   昨日買ったピンクのスカートも気に入っているが、やはりこれが一番良い。鮮やかで、白い足が映える。短いスカートを穿くようになってから、世界が変わったようだ。まだ四日目だが、毎日が楽しくて仕方がない。朝から降り続ける雨も、定期入れが見当たらなかった事も、全く気にならないくらいだ。
   それに、この目。
   「あっ、弘菜。おはよう!」
   弘菜は私を見て、一瞬目を見開き、少しの間、口を開けていた。
   「ああ、癒真……おはよ」
   驚いているようだ。私は優しく微笑みかける。
   弘菜はしばらく私を見つめた後、席に着いた。なんだ。今回は何も言ってくれないのか。少しざんねんだな。でも、弘菜に少しずつ近づいているようで、嬉しいよ。
   私は弘菜の隣に座った。
   金曜の帰り道の事だった。電車で見かけた広告に目を引かれた。
   〈“デカ目”は作れる!〉
   化粧品の広告で、なるほど確かに写真の女性は大きな目をしていた。そしてそれはぱっちりとしていて、美しかった。この目がこの化粧品によって作れるというのか。思えば、弘菜のようなお姉さん達は、みな美しい目を持っている。あれらは彼女の生まれつきのものなのだと思っていたが、もしかしたら私も手に入れられるのだろうか。
下半身を見る。赤いスカート、伸びる足。そうだ、私もお姉さんの資格を持っているのだ。ならば、私もその目が欲しい。
   家の近くのドラッグストアに寄った。これまで利用する事は多かったが、化粧品コーナーに行くのは初めてだった。少し恥ずかしかったが、迷いは無い。
   棚に並ぶ商品を見ていると、どれも似たように見えた。頭が痛くなりそうだったが、気を持ち直して、広告で見た商品を探す。探す。あった。手に取る。
   レジに商品を置く時は、スカートの時と同様に緊張したが、その時と違って自信はあった。
   こうして私は、お姉さんの目を手に入れた。
   チャイムが鳴る。しかし、まだ先生は来ない。
   「そういえば弘菜!本当に同じ大学だったんだね」
   「え?」
   「ほら、まーくん」
   弘菜はスマホから私へと視線を移した。
   「会ったの?」
   「あ、うん。たまたま会ったの」
   ガラリ、とドアが開き、先生が入ってくる。
   「……ふぅん」
   弘菜は先生をちらりと見て、再びスマホに目を落とした。
   まーくんの事を思い出して、少し胸が暖かくなった。
   また学校内で会えれば良いな。
   外を眺めると、変わらず雨が降っていた。さーっと云う音は、耳に心地よい。
   まーくんと会った日。一週間前じゃなくて、学校内で会った日。金曜日だ。あの日は綺麗に晴れていて、空は青く、爽やかな風が吹いていた。私はそんな風に優しく撫ぜられる一輪の花だった。日の光を存分に受け、伸び伸びと舞っていた。赤い花だったのだ。
今日だって、この天気で萎れる事はない。雨を受けて花弁を伏せてはいるが、そこには憂いも艶もある。雨の日の花は、妖しく美しい。
   なんて、自分を花に例えるのは恥ずかしい行為なのかもしれない。でも、世間では良く言われるじゃないか。“女の子は花だ”……以前の私なら、自分になどとても当てはめられるものではなかった。しかし、今なら大丈夫だ。
   このスカートを穿いていると、力が湧いてきた。私に自信をつける不思議な力が、魂の底から湧きあがってくるのだ。
   ああ、まーくん。この美しくなった花を愛でてはくれまいか。その為なら、私は努力しよう。手段を得よう。美しくなろう。貴方に、会いたい。
   「まーくんって何処にいるのかな」
   「え?」
   無意識の内に声に出てしまっていた。弘菜がこちらを見ている。先生は授業を続けている。
   私は声が大きくなりすぎないように気をつけながら、言う。
   「いや、何処の学部なのかなって思って」
   「ああ。経済学部らしいよ」
   「そうなんだ」
   経済学部。心にメモをした。何処かの教室で授業を受けている彼の姿を思い浮かべると、胸が高鳴った。胸の高鳴りと共に、昨日の事を思い出す。昨日は予定が無かったので、家で舞っていた。買ったばかりのピンクのスカートを穿いてくるくる回ると、可愛らしい花のようだった。赤いスカートは、美しい花だ。そうして鮮やかな色と露出された自分の足を見ながら踊っていると、身体も心もとても軽かった。背中には今にも羽根が生えて飛び立てそうだったし、心は既に美しい場所に在った。ふわり、ふわりと花は舞う。輝く光を掴む為に、右手を挙げる。
  と、右手が何かにぶつかった。電球の紐だ。途端に、現実の自室が目に入る。狭く、埃っぽく、くすんでいる。私は顔を顰めた。急いで、鏡の前へと立つ。
   そこには、花があった。鮮やかな花。私はホッと安堵し、またもや美しい世界へと入った。このスカートがあれば、大丈夫だ。
 
   「……真、癒真!」
   「え!は、はい!」
   弘菜が私を覗き込んでいた。
   「もー、チャイム聞こえなかったの?ぼーっとしちゃってさ」
夢うつつ。美しい世界が少しずつ薄れていく。現実は、こっちだ。どうやら考え事に耽っている間に、授業は終わってしまったようだ。
   目を覚ます為に空気を取り込み、まばたきをする。目に何かが滲みたのか、痛みが走った。痛みに耐えながら荷物をまとめ、席を立つ。
   「最近の癒真は、なんだかぼんやりしてる事が多いよね」
   「そうかな?あはは、ごめんね……」
   「……何か考え事でもあるの?」
   「え?ど、どうだろう……」
   弘菜をちらり、と見る。今日も弘菜はお姉さんだ。ピンクのタイツに、短い黒いスカートを穿いている。でも、私のスカートの方が短いかもしれない。
   顔を見ると、バッチリと視線があった。ぱちくりとした綺麗な目。弘菜もあの化粧品を使っているのだろうか。
   「ねえ、癒真」
   弘菜は、じぃっと私を見ていた。
   「な、何?」
   「癒真ってもしかして、まーくんの事が好きなの?」
   心臓を、掴まれた心地。
   「そ」
   妙な声が漏れるのみで、言葉を成せない。突然サウナに入れられたかのように汗が流れたが、不思議な事に身体は冷たかった。
   弘菜が見ている。返事をしなければ、言葉を探す、探す。探す。言葉?何を言えば。まーくん?私がまーくんを、すき?胸が暴れだす。そうだ、まーくんが、すきだ、私は。何もおかしくない、女の子が誰でも当たり前に抱く感情なんだから。私だって、私だって。
   弘菜が見ている。あ、でも弘菜、汗が伝う。弘菜が、まーくんを好きなんだったよな。“まーくん予約しとくから!”弘菜の声が蘇る。まーくんの腕に抱きつく弘菜。甘い声を出す弘菜。弘菜は、お姉さんだ。それなら、私なんかがでしゃばってはいけない。
   弘菜が見ている。ああ、私は何を図に乗っていたんだろう。私なんかが、身の程も弁えず、大きすぎる夢を見て、烏滸がましい限りだ。私なんかが。ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。
   「……ごめんなさい」
   「何で謝んの?それどういう意味?」
   「そ、その……」
   言葉が、上手く紡げない。謝罪の気持ちはこんなにもいっぱいなのに。
きっと私は今、泣きそうな顔をしているのだろう。上なんて向けない。情けない。
   「あのさ、勘違いしなくて良いよ」
   勘違い?
   私は顔を上げる。
   弘菜が見ている。弘菜は呆れたように、ため息をついた。
   「別に私が怒ってるとか言う訳じゃないから」
   「で、でも……」
   「癒真の気持ちが聞きたいだけなの」
   「え……」
   弘菜の顔を見る。優しく笑っている。聖母マリアの如く思えた。
   小さく声が漏れそうになる。弘菜が大きく頷いた。
   「大丈夫、私に構わず言ってみて!」
   「あ……」
   マリアの慈悲に後押しされ、純化された私の気持ちは、素直な言葉となった。
   「すき。……私、まーくんの事が好き!」
   心が晴れ渡るようだった。金曜日の空を思い出す。あの時、まーくんに会えて、そして赤いスカートを褒めて貰えた。そして胸が高鳴ったんだ。
その気持ちを今、純な言葉にして弘菜に伝える事が出来た。
  「おー!もー、何―?良いじゃん!癒真ちんにも心の春が訪れたのね」
   「えへへ……」
   弘菜の優しい言葉が心へと溶ける。
弘菜を見る。聖母は優しい笑みをそのままにしていた。聖母と共に笑った。心地の良い笑いが生まれた。
  「しかし癒真がねぇ。いやー、こういう事もあるのね。まーくんてば、モテ男なんだから」
   「かっこいいもんね。……あ、でも弘菜……。弘菜は、まーくんと付き合ってるんじゃないの?」
   「んー?あー、いやいや、別にそういうんじゃないの。まー、アンタと同じく片思い中って感じかな。こりゃライバルだぞ」
   「ライバル……!」
   それはつまり。
   弘菜と同等の立場にある、という事だ。
   「アンタに取られないように頑張んないとね。勝負だからねー、じゃあ、私は用事あるから、ここで」
   「あ、うん」息を一度吸う。そして、手を上げる。「がんばろうね!」
   教室に残る弘菜も、軽く手を上げた。
   雨は上がっていた。曇り空だったが、先ほど抱いた感情の余韻で、身体はほのかに暖かかった。
 
 
    一週間と少しぶりに、キチンと朝から来る学校は、特に何も変わらなかった。まるで昨日も来ていたかのような心地にぼくは息を吐く。
   教室に入った時に、久しぶりに現れるぼくへのリアクションがもう少しあるかと思ったが、そんな訳は無かった。クラスメート達はみんな、参考書に夢中だ。ぼくは誰とも挨拶せずに、自分の席へと着く。みんなのような行動を取る気には、なれなかった。
   机を探る。ああ、こんなところにあったのか、数学の参考書。それに、見知らぬプリントの束がある。数学のプリントのようで、一枚目にメモがついていた。
   〈二十二日までに必ず提出の事 山田〉
   はは、アイツ、字きたねーな。黒板の字も、いつも汚い。メモを握り、プリントを机の中に仕舞う。
   「おう、衛。久しぶりじゃん!」
   声の方を向くと、吉留がいた。変わらないにやにやとした顔は、少し懐かしく感じた。
   「おう、久しぶりだな」
   「なにー、風邪か?体調管理ちゃんとしろよー。ってかお前、メール返せよな」
   「ああ、メールな」左手の感触を思い出す。「すまん、ケータイちょっと調子悪くてな」
   「まじかよー。まあ、課題の事で山田キレてたし、気をつけろよ」
   「そうか、どうもな」
   左手に握ったものを捨てる為に、ゴミ箱へと向かう。ぽい。ミッションクリア。そして机へと戻ると、まだそこには吉留がいた。
   「なんだよ、自分の席戻んねーのかよ」
   「や、だってお前久しぶりじゃん。しゃべろうぜ」
   「なんだよ、勉強しろよ」
   「冷たいなぁ。とか言って、嬉しそうな癖に。ああ、そうそう!これ言おうと思ってたんだ、あのアーティストの新曲出たじゃんか。お前聴いた?」
   ぼくらの好きなアーティストの新曲について、しばし盛り上がる。一人でいる間は特に何も変わらないと感じたが、人と関わると、自分が日常へと戻るのが久しぶりなんだと感じた。
  そう、人は他者と関わる事によって、様々な事を感じさせられる。
    「井内、ちょっと良いか?」
   朝礼の後に、担任の岡元にそう言われた。
   「一限の冴木先生には、授業を抜ける事を俺から言っておく。だから、ちょっと話そうか」
   「……はい」
   そう簡単には、日常には戻れないらしい。特に何も変わらない、訳がないのだ。
 
   岡元に連れてこられた教室には“生徒指導室”と書かれていた。その名称について脳内で皮肉りたかったが、何も思いつかなかった。岡元の後に倣い、指導室と名のつく教室に入る。長机が一脚に、椅子が向かい合って二脚。
   「さあ、座って」
   先に座った岡元に促され、空いている方の椅子に座る。向かい合って、逃れられない。懺悔室のようだ、と思った。まあ、本物の懺悔室など見たことがないのだが。
    「今日ここに呼ばれた理由は分かるか、井内?」
   「まあ……」
   「まあ、じゃないよ。井内、先週一週間何してたんだ?」
   蛍光灯の光を受け、岡元の眼鏡が白く光る。光る眼鏡がぼくを捉えている。ぼんやりと自分の脳内を巡っていて、ある記憶を見つけ出した。さっきこの場を懺悔室のようだと思ったばかりだが、違う。確か懺悔室では、懺悔しやすいように相手の顔が見えないようになってるんだっけか。だから、これは懺悔室ではない。
   「井内?聞いてるのか?」
   「あ、はあ」
   「先週一週間、何してたんだ?」
   眼鏡が光る。そんなに見つめられたら、罪を告白できないぞ。その間違っているものが、正義のつもりか。
まあ、良い。ここは、偽物の懺悔室だ。始まるのも、偽物の懺悔だ。
   「ちょっと体調崩しちゃって……なかなか学校にも来れる状態じゃなかったんです」
   「そうなのか?家に連絡させてもらったが、お家の方がお前はずっと家にはいなかったとおっしゃっていたぞ。そんな体調で何処に行ってたんだ?」
   「いや……学校に行かないって言いづらくて、母親に。ほら……受験生じゃないですか。だから、勉強の事とかで余計な心配かけたくなかったんですよ」
   「そうか。病院にでも行っていたのか?」
   「いや、知り合いの家に居させてもらいました。桂の方に親戚が住んでるんです。だから、その人の家で勉強してました」
   「勉強してたのなら、学校に来れば良かったのに。授業にもついていけなくなって大変だろう。体調は大丈夫だったのか?」
   「いやまあ」
   そこで、言葉が止まってしまう。部屋の壁から岡元に視線を移した時に、見えてしまったのだ。先ほどまでとは角度が変わったのか、光っていない眼鏡。そこから見えた、岡元の目。
   何と表現すべきか。
   すぐに思いつく言葉は、倦怠感。それから、不信感。
   ああ、面倒くさいんだな。はなから信じちゃいないんだな。こんな劣等生の言う事など。教室で大人しくしていられない、レールから外れた者の弁解など。
   淀んで濁った感情を抱くその目は、正義からは程遠かった。
   手をぐっと握りしめる。親指の付け根に爪を立て、痛みを感じるまで力を込める。
    「……だって、しんどかったんですよ。確かに体調は悪くて、でも家にはいられなくて、置いて行かれるのがこわいから勉強はしたくて、仕方なかったんですよ。プレッシャーがすごいんですよ!毎日がこわいんですよ!」
   こんなぼくを、助けてくれない。助けてくれない癖に、関わるな。
   「……そうか」
   再び、岡元の眼鏡が光る。
   「保健室もあるんだから、今後からそういう時は学校に来なさい。どうしても無理なら、家で休みなさい。とにかく、今回のような事は余計にご家族に心配をかけるのだと、自覚しなさい」
   「……」
   「分かったか?」
   「……はい」
   「勉強も、分からなくなったらすぐに先生達に聞きなさい。英語はいつでも見るから。井内は確か……数学が苦手だったかな?なら、山田先生に質問しに行きなさい」
   「……」
   「この時間ならまだ、一限に間に合うな。途中からになるが、教室に戻りなさい」
   「……はい」
   ぼくが席を立ち、岡元が席を立った。部屋の電気が消され、もう光らなくなった眼鏡の中は、さっきより分かりづらく、何と表現したら良いか分からなかった。
   職員室へ向かう岡元と別れ、一人で教室の方へと戻った。一度外から覗いてみたら、中にいるのは本当にゾンビの集団にしか見えなかった。寒気と吐き気を覚えたが、脳の一部が麻酔がかかっているかのように痺れていたので、ぼくは大人しくゾンビの一員となる為に中へと入った。途中で入ってきたぼくに、ゾンビ達はちらり、ちらりとした視線を送った。