4-⑵ さて、問題。ストーカーです!

   息を切らせて走る。目的地は、二人が良く会ったあの駅。あそこから二人の関係が始まったと言っても過言ではない、始まりの土地だ。
   その始まりの土地に、あの人を呼び出していた、大事な事を伝える為だ。胸の鼓動がうるさいのは、走っているからだけではない。
   足を、止める。駅の近くまで着いたのだ。目線を動かし、そして見つけた……あの人だ。ちゃんと来てくれたのだ。相手はこちらに背中を向けていて、ぼくの存在にまだ気が付いていない。息を深く吸い込み、そして吐き出した。
   心が随分落ち着いた。よし、行こう。そう思って相手の元へ向かおうとした時、不意に彼女が振り向いた。途端、一度落ち着いた筈のぼくの心臓は暴走する。汗が流れ、身体を上手く動かせない。
   そんなぼくの元へ、彼女が小走りでやって来る。
   「来てくれたんだね」
   「い、いやまあ、呼び出したのはこっちだし。そりゃ来るよ」
   「でも嬉しい」
   「う」
   言葉が続かず、顔が熱くなる。彼女を見ると、何時ものように微笑んでいた。その顔を見て、少し勇気が出た。よし。もう一度深呼吸。よし、言えるぞ。
   「あ、あのさ」
   「うん……」
   彼女の目も緊張しているように見えた。ドキドキが収まらないのは、お互いなのだ。
   「ぼく、きみの事が……」
 
   ふと、気が付くと十八時過ぎだった。おっと、もう約束した時間じゃないか。危ない危ない。残り数ページだけ軽く目を通してから、手に持っていた本を置き、荷物を片付け始める。
それにしても、昔から勉強漬けで、漫画なんてあまり読まなかったけど、こんなにも時間を忘れてしまうものなのだな。これまでのクラスメイト達が夢中になっていたのも頷ける。
   自分の荷物をまとめ終えたので、コップと漫画を持って、個室から出る。それぞれ、専用の返却棚へ。そのままレジへと向かう。随分長い間居た気もするが、会計は千円だった。あれだけの漫画を読んだ事を考えたら、安いものだ。読みかけの続きも気になるし、また来よう。
   エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。時間を確認すると、十七分だった。なんだ、まだ余裕があるな。
西院駅正面、西院アフレ。飲食店や本屋、先ほどまでぼくが居たネットカフェや歯医者なんかもある、実に便利な建物。今日ぼくは、ここで人と会う約束をしている。
 一階に到着。すると、そこにはスマホを眺めている見知った顔があった。待ち合わせ時間まであと十分以上あるのに、早い到着だ。
   「吉留、随分早いな」
   肩を叩くと、振り返る笑顔。
   「おう、嬉しくてな、つい早く来てしまった」
   「何だよそりゃ。とりあえず店入るか」
   「そだな!」
  二人連れ立って階段を降りて、地下へ向かう。アフレの地下には居酒屋が充実している。そこから適当な店を選び、席に座って、適当に飲み物を選んだ。
   「おっ、来たぞ。はやいなー」
   店員ににこにこしながらお礼を言い、グラスを受け取る吉留。コイツは本当に愛想が良いな。少し、見習いたい点ではあるかもしれない。軽く会釈しながら、グラスを受け取る。
 「そいじゃ、なんていうか、色々かんぱい」
   「乾杯」
 カツン、と気持ちのいいグラスの音。思えば、友達同士でこういう店に来るのは初めてだ。喉を通らせた飲み物も、とても美味しく感じた。
   「っぷはー!美味いな!いやー、しかしこうやって衛と居酒屋来れるなんてな。これが大人になるって事だな」
   「飲んでるもんはウーロン茶だけどな」
   吉留はオレンジジュース。ぼくらはまだ、十八歳なのだ。
   「まーまー、雰囲気が大事なのよ」
   「そうかねぇ。……まあ、そうかもな。それにしても、お前その髪何だよ」
 「良いだろー。え、似合わない?」
   「いや、似合う似合わないっていうか……」
   素直に言うと「驚いた」が正しい。久しぶりに会う吉留の髪色は、日本人が天然で持つにはあるまじき色だった。
   「まぁさ、ちょっとテンション上がっちゃったのよ。せっかくお堅い校則からも解放されたしな。むふ」
   「なるほどな。まあ、でもそっちの方が吉留らしいと言えば吉留らしいかもな」
   「ヤンキーじゃないぞ!」
 「言ってねぇよ。……製菓学校はどうよ」
 「良い感じ!授業は楽しいし、みんなお菓子の事真剣に考えてて、良い環境だわ」
   「そうか。それは良かったな」
   「おう、今度美味い菓子作ってやるよ。衛の方はどうなんだ?」
   「ああ」軽く目を閉じ、脳裏に光景を浮かべる「楽しいぞ。大学生になって良かった」
   「そうか!良かったなぁ。でも、衛が高槻大学に行ったのは予想外だったな。てっきり国公立志望だと思ってたから。聞くの今更かもしれんが、何で高槻にしたんだ?」
   「そうだな。とりあえず、料理頼まないか」
   「おいおい、はぐらかすなよ。あ、店員さん。刺身盛り合わせとから揚げと焼きおにぎり二つで」
   「決めるの早いな」
    「あ、今ので良かった?衛の食べたそうなものも勝手にテレパシーで受け取ったんだが」
 「そりゃどうも。まあ、文句はないよ。そんで、はぐらかさないよ」
   「じゃあ、聞かせてくれよ」
   「そうだな」目を閉じる。今度はさっきより少し長めに。「……夢を見つける為に、と。あと、ぼくの大事なものがそこにあるからね」
 夢は、まだ見つかっていない。
 でも、それでも今は良いんだ。大学に行っても、生きていても良いんだと知れた。大事なものが、教えてくれた。
   ……なんてね。
   吉留が何故か静かになったのに気が付き、顔を上げて、ぎょっとした。
奴は、何というかものすごくキラキラとした目をしていた。
   「な、なんだよ……」
   「ま、衛うー!良かった!お前が、お前、良かった!」
   「だからなんだよ……」
   「いやだってさ、お前高校の時に、夢が持てないから大学に行く理由がイマイチない、みたいな感じですげぇ暗い顔してたからさ、大丈夫かなって心配してたんだけどさ、ちゃんと理由を見つけられたんだなって……おま……よかっ良かったなぁ!」
   「え、ちょ、なんでお前が半泣きなんだよ!」
   「だってさぁ……だってさぁ……」
   「……吉留」
   「すいませーん、唐揚げお持ちしました」
   「あ、ありがとうございます。わーい」
   「復活早いなおい!」
   「いやいや、感動が冷めた訳じゃないぞ?それとこれとは別で美味いもん味わわないといけないだろ。さ、お前もお祝いがてら食え食え!」
   笑顔でそう言って、唐揚げを勧めてくる吉留。……何というか、こいつには敵わないな。
   でも、こいつと出会えていて良かったな。そう、思えた。
   そうして食べて飲んで話して一時間程経った頃。
   目の前の男は、すっかり酔っ払いのテンションとなっていた。
   「はい!次のドリンク入ります、いえーい。……ん?おいおい、衛くん、飲みが進んでないんじゃないのか?ここらでいっちょバーンと頼んでみようぜ」
   「いや、頼まねぇから」
   「なんだよー、衛ってばそういうトコ真面目なんだからー、もー」
   「いや、なんでだよ。なんで酔ってんだよ。お前が飲んでるもの、最初っから変わらずソフトドリンクだろ」
   雰囲気酔いって奴なのか。
   ハイテンションで店員を呼んだ吉留は、お冷を二つ頼んだ。お冷かよ。
   「まま……。テンションも上がってきたところで、ここらで暴露大会にでも移りますか。お前好きな女子いんのかよ」
   「修学旅行かよ」
   まあ、糞真面目なぼくらの高校の修学旅行では。こんな会話など無かったのだけれど。
   「じゃあ、質問を変えよう。好きな女子の事が好きなあまりにやらかしちゃった事言えよ」
   もはや、質問ではなくなっている。それは、命令だ。
   「やらかしちゃった事……つまりそれは、放課後誰もいない教室に忍び込んでリコーダーを……とかいうやつか。例えばの話だけどな」
   「そうだな、そんな感じ。果たして本当に例えばの話なのかな。衛ってば、真面目に見えて実はすごい事やらかしてそうだもんな。いや、真面目だからこそか。普段の厳格な生活で抑えつけられた禁忌のリビドーが暴発とかそんな感じの」
   「はは、何だよそれ。失礼な奴だな、お前は」
   「貶している訳じゃないぞ。責めている訳でもない。純真たる感想だ」
   「そうだな。でもその理論で言えば、あの学校にはそういった犯罪予備軍が五万といそうだけどな」
   「あんまりクラスメイイトを貶すもんじゃない」
   「貶してはない。お前の理論を当てはめただけで、つまり感想なんだろ?」
   「ああ、そうだな。自分から言い始めて何だが、難しいラインだな」
   「ラインなんて色々言葉をこねくり回してりゃ分かんなくなるもんなんだ。ところで、人に聞くんなら自分から言えよ」
   「ん?ああ、やらかした事な」
   記憶を辿っているのか、黙ったまま上の方を見つめている。
   軽いノリで聞き返したが、重いものが返ってきたらどうしよう。
   先の理論とはまた違うが、普段明るい男だからこそ、頭の制御装置が外れてしまった時に本当に陰湿な事をやらかすかもしれない。聞くのが怖くなってきた。
   「あー、あれだ。小学生の時の話でも良いか」
   「随分若い記憶だな。別に構わないけど」
   「俺はさ、隣の席の子が好きだったんだ。名前はよっちゃん。今でも覚えてる、三つ編みが似合ってた」
   「ほう」
   「俺はどうにかしてよっちゃんとお近づきになれないものか、と考えていた。でも、小学生の俺は本当にシャイだった」
   「今からじゃ想像つかないな」
   「今も実は結構シャイなんだぜ。とにかく、シャイだった俺は念願の隣の席となれても、ロクに会話も出来ず、悶々とした毎日を過ごしていた」
   そこで、吉留は水を飲む。少し前に頼んだタコの唐揚げが届いた。
   「……このエピソードに重要なポイントは三つある。そして、このエピソードに大事なアイテムがある。それが、消しゴムだ
   「まず、一つ目のポイント。授業中によっちゃんが消しゴムを落とした。よっちゃんは、あ、て小さな声を出した。その声がまた可愛かったんだ
   「消しゴムはころころころころっと踊り回って、俺の足元までやって来た。驚きだろ?シャイな俺を見かねて手助けしてくれたかのように見えたね。
   「俺はほとんど反射的にソイツを拾った。そう、拾う時は反射的だったんだ。だが、拾った途端に心臓が暴れ始めた。コレはよっちゃんの消しゴムじゃないか。ああ、どうしよう。どうしよう?
   「まあ、どうしようなんて言っても、その場でどうしようもない。あまりに長く持っていても怪しい。俺は本当に普通にその消しゴムを“はい”って言ってよっちゃんに渡した。シャイだったから声は小さかったかもしれんけど
   「そしたらよっちゃんは“ありがとう”って言って消しゴムを受け取った。ほとんど初めてと言ってもいい、俺とよっちゃんの会話だ。本当に消しゴムには感謝するべきなんだ
   「だけど、だ。その時に俺は嬉しいながらもどこか違和感を覚えていた。俺は今、何にドキドキしていた?可愛いよっちゃんとの会話?それとも、よっちゃんの消しゴム……?
   「そう思った瞬間に俺は、先ほど自分が抱いていた感情を思い出した。どうしよう?って思った時だ。俺は、その時、よっちゃんの消しゴムを口に入れたい衝動に駆られていたんだ。
   「そっからの時間、授業中いっぱいずっと俺は悩んでいた。ぐるぐる悩んでいた。どうして俺は消しゴムを口に入れたいだなんて思ったんだろう。よっちゃんが驚く姿を見たかったから?よっちゃんの事が好きだから?
   「授業中いっぱいって言ったけど、それどころじゃないな。その日ずっと、布団の中でも、次の日も、その次の日も、家でも、学校でも、ずっとその事を考えていた。
   「そんな中、次のポイントが訪れた。俺は学校に筆箱を持ってくるのを忘れたんだ。一時間目の算数の時にその事に気が付いたけど、シャイな俺は先生に言えない。
   「そしたら、よっちゃんが話しかけてきた。“筆箱忘れたの?”“う、うん”“じゃあ、貸したげる”よっちゃんは机と椅子とを近づけてきた。好きな子にそんな事されたらドキドキするだろ?
   「俺はもう本当にドキドキしていた。よっちゃんがいつもより近い。しかも、俺の為に近づいてくれる。その時は小学生ながら、人生で一番幸せな時なんじゃないかって思ってた。
   「でもそのドキドキは、次のよっちゃんの言動でブレる。“あ、消しゴム一個しか無いや。鉛筆はいっぱいあるから貸せるのに。ごめんね、二人で一緒に使おう”そう言って俺らの真ん中にソレを置いたんだ。
   「俺の心の底が、あの時の何かを思い出したように反応した。消しゴムだ。あの時口に入れようとした消しゴムだ。この頃ずっと頭の中にあった、あの消しゴムだ。ここにある。
   「とても使えなかった。もちろん、鉛筆の方はありがたく使っていた。でも、消しゴムはダメ。そっちの方すら見れない。俺は書き間違えないように書き間違えないようと必死だった。
   「そんな感じで、その日一日中慎重に文字を書いていた。気が気でなかった。よっちゃんが近くにいるドキドキなんて、どっかに行ってしまっていた。ただ、消しゴムの事ばかり考えていた。
   「そしてHRの時間に、鉛筆を返しながらよっちゃんにお礼を言った。よっちゃんは笑顔で受け取った。俺はというと、緊張から解放された喜びなのか手に入らなかった惜しさなのかが混ざって茫然としていた。
   「俺はその日からますます、自分が分からなくなっていた。俺は消しゴムの事が好きなのか?よっちゃんの事が好きなんじゃなかったのか?訳がわからない。こんな自分なんて嫌だ……。
   「純粋によっちゃんに片思いしてた時より遥かに悶々とした日々が始まった。俺は変態なんだろうか。どうしよう。そんな時に、最後のポイントの時がやってきた。
   「毎日悩みすぎて体調が悪くなっていた俺は、体育の先生に心配され、授業中に保健室に行くよう促された。後ろめたい気がしたから、誰の付き添いも断って、ひとりで授業を抜けた。
   「でもどこが悪い訳じゃないから保健室に行く気もなれず、当てもなく歩いて教室までやってきた。みんなは体育の授業中。誰もいない教室はすごく新鮮に思えた。
   「なんとなく、自分の席についた。最近ずっと悩んでいたから疲れたなぁ、こうやって誰もいないと、リラックスできるや、なんて思っていた。深呼吸なんかしながら。
   「そうやってぼーっとしていた時に、俺は気が付いてしまった。今、ここには俺ひとりしかいない。とすると、何をしてもバレない。横の机を見ると、見慣れた筆箱があった。
   「途端にまた、心臓がばっくんばっくんだよ。何考えてんだ。ダメだ。ダメだぞ。頭の中で自分にそう言い聞かせながら、手は筆箱へと伸びる。そうっとチャックを開ける。
   「――あった。あの消しゴムだ。俺は吐き気なのか高揚感なのか良く分からないものを口の中に巡らせた。そして、後ろを見渡して、そして、消しゴムをつまんで、素早くポケットに入れた。
   「そこには居られない気分になって、教室を飛び出したよ。そしたらすぐにチャイムが鳴って泣きそうになったな。みんなが帰ってきてしまう前にと思って保健室に飛び込んだ。」
   そこで、吉留は水を飲む。ぼくも唾を飲み込む。
   「それで……どうしたんだ?」
   「顔面真っ青だったろう俺を見て、保健の先生は仮病だなんて疑いもせずにベッドを貸してくれたよ」
   「いや、そこじゃなくて……」
   「ああ、分かってる」吉留はポケットに手を突っ込んで、そして、机の上に出した。ソレを「これの事だろ」
   ぞくっと寒気がした。
   ソレは、消しゴムだった。
   かつては可愛らしい色だったのだろう、今は黒ずんで何とも言えない色をした小さな塊となっている。
   「これ……お前……」
   「なあ、衛。これ、どう思う?」
   「どうって……」
   チラリと吉留の方を見る。再びぞくっと身体が震える。明るくて良い奴、というイメージしか無かった吉留が、とても恐ろしく見えた。顔が変わった訳じゃない。だが、目の前の男は突然、ぼくの知らぬ人間へと変貌を遂げたようであった。
   ああ。
   心を震わせながら、ぼくは思う。
   吉留だけが、こういう訳じゃない。
これは、人間が誰しも持つ心の底の表情。人の間で生きていく内に、いつしか抱えたひとりの問題。問題と向き合ってきた顔。答えを出しあぐねている心。
   吉留も、ぼくも、癒真も、みんな、そうだ。
   ぼくは、喉を鳴らして何かを飲み込む。
   「……これは、消しゴムだな」
   「いや、そこじゃなくてな」
   「ああ、分かってる。分かってるんだ……」深く、息を吐く。「……これは、お前が抱えていた問題なんだな。きっと、お前は楽しく生きながらも、この問題と共に育ってきたんだろう」
   「そうだ、な。なんでだろうな、いつか衛には話したいって思っていたんだ」
   吉留は視線をテーブルに這わせる。その先を追う。消しゴムではない。随分前に届いたタコの唐揚げがある。もうほとんど熱はないだろう。あるのは、油ばかり。そんな唐揚げを二人して見つめる。だがこれは、視線の上にあるだけなのだ。
   「……何で消しゴムなんだろうなぁ」
   吉留が呟いた。顔を見てみたが、相変わらず奴の視線は唐揚げにある。
   「……最初はさ、本当に純粋にその子が好きだったんじゃないか。よっちゃんの事がさ。でもシャイだから、よっちゃんは手に入れられない。なら、代わりによっちゃんの所有物を手に入れよう……って感じに頭が働いてしまったとか」
   「それは何となく分かるんだ。俺も考えた時、そう思った。でも、消しゴムって意味分からなくね?例えばパンツとかさ、そんな感じのものならまだ欲求として理解できるんだけど」
   「そうか?」
   ぼくの返事が意外だったのか、吉留の視線がぼくを捉えた。ぼくは躊躇わずに続ける。
   「パンツなら欲求として整理できる、っていう問題でもないと思うんだ。好きな相手だからと言って、異性相手だからと言って、ぶつける欲求が全て性欲に繋がる訳じゃない。例えば、支配欲。嗜虐欲。ストレスの解消。経済的利益。色々あるさ。だから、女子のパンツを求めたとしても、その行動原理が性欲ではない可能性もある。“その女子のパンツを持っている”=“気になる相手の大事なモノを持っている”という支配欲に繋がるケースもあるんじゃないかな。秘密を握る快楽。その場合、別に性的な意味も兼ね備えるパンツじゃなくても良かったんだ。ただ、ソレが相手にとって大事なモノだったというだけで。だから」一度、大きく息を吸う。「お前の求めた消しゴムにしても、そういった何かしらの理由があるんだろ。ホラ、考えたら消しゴムって間違いの象徴だろ。好きな子が何かを間違えて焦ってた時に握ってきたモノを手に入れたいって考えると、何となく納得いくぞ。直接的に性欲と繋がらないからって、変じゃない。何かしらの理由はある。だから、もう悩まなくて良い」
   思うままに話すと、長くなった。
   吉留を見ると、ぼくを見たまま、固まっていた。フリーズ。
   「あー……、変な話をして悪かった」
   「いや……」
   今度はぼくが固まった。吉留は口を開くと共に、涙を零し始めたのだ。
   「……」
   「あれ?ああ、すまない……何か出てきたわ」
   「吉留……」
   「お前はすごいな。普通、そんな事言えないぜ。お前、変わってるわ。こんな居酒屋の中でパンツパンツ連呼するし」
   「そこかよ」
   「いや、冗談」ぽろぽろぽろぽろ、と涙を落としながら、吉留は少し笑った。「ありがとうな、衛」
   「……おう」
   「ところで、お前のやらかした事はなんだ?」
   「ぼくも言うのかよ」
   「そりゃそうだわ」
   「分かった、話すよ。だから、お前はとりあえず鼻水を拭け。ホラ、ティッシュ。……そうだな。ぼくにも、好きな子がいたんだ。素敵な子だよ」
 
 
   人に、呼び出された。
 
   人を、呼び出した。
 
   場所は、私が通う大学内。
 
   場所は、ぼくが通う大学内。
 
   人気はないけど、緑の景色が素敵なところ。
 
   人気はないけど、心地よい風が吹くところ。
 
   日にちは、今日。
 
   日にちは、今日。
 
   時間は、十五分後。
 
   時間は、十五分後。
 
   相手は、素敵な人。
 
   相手は、素敵な人。
 
 ◇
 もうすぐ、会える。
 
 ◆
 もうすぐ、会える。
 
 もうすぐ、会えるのだ。実際に会うのは、どれ程ぶりの事だろうか。メールも最近していなかった。だが、別に飽きただとか忘れていたとか言う訳ではない。少し、時間が必要だったのだ。随分待たせてしまったかもしれない。笑って許してくれるだろうか。
 ぼくが待つのなら気は楽なんだけどな、慣れたものだし。スマホのホームボタンを押し、時間を確認。待ち合わせまで、後十三分程。もうすぐだ。
 実は言うと、三時間ぐらい前からここにいる。いや、五時間だったかもしれない。色んな事を考えていた。考えている時間は苦痛ではなかった。普段からもずっと考えているんだ。慣れたものだ。
 心地よい風が、ぼくの身体を撫でる。今日は雨もなし、湿り気も少ない。梅雨もそろそろ明けるのだろうか。太陽も輝いている。
 と、ぼくの視界に人が現れた。
 「どうしてここで寝転がってるの?ベンチあるのに」
 「空が見たくてさ。それに、こうしてると風が気持ちいいんだ」
 相手はふぅん、と呟いて、ぼくの横に寝転がる。
 「ほんとだね」
 「だろ」
 「久しぶり、井内くん」
 「うん、久しぶり、癒真」
 風が吹く。癒真がえへへ、と笑った。
 「井内くん、元気そうだね。良かった。井内くんは、変わらないね。すごく変わったけど、変わらないね」
 「何だよそれ。どっちなんだよ」
 「変なんだけど、どっちもなの。こういう事を私はしばらく考えてたんだけどさ」
 癒真が息を吸う。吸い込む。緑に囲まれた大気を取り込む。
 空気が美しい。空は澄んだ色をしている。
 「……終わり?」
 「あ、ごめんごめん。空が綺麗でさ、ぼんやりしちゃったよ」
 「何だよそれ」
 「えへへ、井内くん、笑い方が優しくなったね」
 「そうか?……となると、ぼくは変わったって事なのか?」
 「ううん、違う。私が思うのはね、人の変化って一概には語れないって事。急になんて変われないし、ずっと変わらずになんて居られないし、努力次第で変わるし、ある日突然変わるし、誰も気が付かない内に変わるし、みんなに囲まれながら変わるし、でもずっと変わらないの」
 「……つまり、要素次第って事か。どこを捉えるかによって違うと」
 「そうなの!だから、井内くんの場合は悩んでいたものがあらかた片付いてすっきりと変わったと同時に、もともと持ってた良いとこは変わっていないのね」
 「ポジティブな意見だねぇ」
 「思うままに言ったらポジティブになったんだよ。あ、大事な事付け加える!」
 風が吹く。横を向くと、癒真は気持ちよさそうに風を浴びていた。その気持ちは分からなくもない。
 「で、何?」
 「さっき井内くんが“どこを捉えるかによって違う”って言ったけど、もう一個。誰が捉えるかによっても違うの」
 くるり、と癒真がこっちを向く。どきり、とした。
 「だから、私にとっては、井内くんが悩んでたとこは変わったし、良かったとこは変わってないよ」
 「……さっきも同じ事言ったよ」
 「あ、あれ?本当に伝えたい事だったからさ」
 癒真の笑顔が、ぼくの心臓を優しく揺らした。その余韻が耳を熱くしている。
 チャイムの音が鳴った。今日は土曜日なので人は少ないが、一応授業はある。だが、この場所で聞くチャイムはどこか遠い世界のものに感じられた。
 人気のないこの美しい世界で、ぼくらは二人きりだ。
 「癒真」
 「なに?」
 ごろり、と身体を半回転させて癒真の方へ。ピンクのカーディガンを羽織っている。
 「癒真が変わったって言った部分。……ぼくは、ずっと悩んでいた事を解決させたんだ。あらかた片づけられたんだ」
 「わあ!」癒真が笑う。「それは良い事ね」
 「うん、良い事だ。だから、答え合わせをしなくちゃ」
 「答え合わせ?」
 「うん。癒真はさ、何か答えを出せた?」
 「うーん、そうだね」
 癒真が上半身を起き上がらせる。深呼吸をして、素敵な空気を胸いっぱいに取り込む。
 「本当にいい天気だね。あのさ、私が一年くらい前に言ってた事なんだけどさ。私が何でここの大学を選んだかって話覚えてる?」
 「うん、覚えてる」
 「わあ、すごいね。私はね、実はあの時まで忘れてしまっていた。毎日が必死で、その癖ずっと下向いてたら、見失ってしまっていたんだ。その事を、井内くんが気づかせてくれた」
 ぼくも上半身を起き上がらせる。輝きが目に入り、眩しかった。
 「それ以来、大学が楽しいんだ。これが、私の見つけた答えだよ。井内くん、ありがとうね」
 眇めていた目を開くと、癒真がいる。さっきから笑顔を見る度にどきどきしてしまって、ちゃんと見れていなかった。照れてすぐに目を逸らしてしまっていた。胸を高鳴らせながらも、きちんと見る。
 癒真は、とても可愛くなっていた。
 癒真は、変わったね。でも、変わらない。変わっていないとこもある。
 癒真がぼくに感謝をした。感謝をしたいのは、ぼくも同じだ。
 癒真がぼくの笑い方を誉めた。それを誉めたいのは、ぼくも同じだ。
 癒真がいい天気だと言った。その評価は、ぼくも同じだ。
 空が綺麗でぼんやりしてしまいそうになる気持ちも、素敵な空気を胸いっぱいに取り込みたくなる気持ちも、大学が楽しいという気持ちも、全部同じだ。
 癒真が、答えを出した。
 ぼくも、この一年間でいくつか答えを出した。どれも大事なもので、そしてその根底には同じものがある。
 ぼくの、答え合わせをしないと。
 癒真が立ち上がった。そして、大きく伸びをする。癒真の足は、相変わらず綺麗だ。赤い花から伸びている。この花は、この世界に良く合っている。
 「んー、本当にいい天気だ」
 「癒真。きみに言いたい事があるんだ」
 「なあに?」
 癒真が振り返る。ぼくは、この存在に、この髪に、この目に、この鼻に、耳に、眉に、首に、喉に、胸に、お腹に、背中に、肩甲骨に、お尻に、足に、くるぶしに、心に、輝きに、すべてに、告げよう。
 「あのさ」
 風が、吹いた。
 癒真はぼくの方を見ている。
 ぼくは、花を見ている。
 花である癒真の花、赤い花弁が風のいたずらで捲られた。
 癒真は気が付かない。癒真はぼくを見ている。
 ぼくは花を見ている。赤い花の中、癒真の綺麗な足の付け根。
 美しい花の、秘められた中身。
 そこには、美しく可愛らしい、レースのついた下着があった。
 
 ……あれ?
 おちゃめな風はすぐに通り抜け、花は再び役目通りの位置に戻る。
 
 ああ、そうか。
 そうだなあ。そりゃそうだよな。
 
 「井内くん、どうしたの?」
 癒真は可愛い顔をきょとんとさせて、尋ねる。
 質問には、答えなければ。
 「ああ―――大丈夫、何でも無いんだ」
 「そうなの?」
 「うん、どこかに遊びにでも行こうか」
 「うん、行こう!」
(了)