2-⑷ さて、問題。ストーカーです!




 学校。昨日ぶりの教室は、昨日とは全く違うようだった。
   勿論、ぼくが散弾銃やバットで破壊しつくした、という意味ではない。クラスメイトは至って平和に、各所集まって昼ごはんを食べていた。
見える世界は気持ちの問題、なんだろうな。
   「そういう話って好きじゃなかったんだけどな」
   「ん、何がだ。あ、もしかして昨日出たあのマンガの新刊買ったか?あの展開はないよな」
   「違う。まだ買ってないから、ネタバレはすんなよ」
   「えー、どうしよっかな」
   にやにやと笑う吉留。さっきからサンドイッチを開けるのに苦戦している。
   ぼくは弁当の卵焼きを口に運んだ。
   「それにしても吉留って、なんていうか余裕だよな」
   「どういう意味さ。まあ確かに、俺は毎日余裕のよっちゃんなんだけどなー、んはは」
   「いやさ、俺たちって受験生じゃん。で、ウチ進学校だし、プレッシャーすごいじゃんか。でも、お前はあんまり切羽詰ってるように見えないよなぁ……って」
   「あーなるね」グイグイとサンドイッチの包みを引っ張る吉留。「や、まぁ、俺も一応勉強はしてるよ。夢の為にね。確かに他の連中よりかは、試験に力を尽くしてないけどね」
   「夢?」
   「うん。俺さ、パティシェ目指してんだ」
   パァン、と音を立て、サンドイッチが散る。だが、吉留は真剣な顔をしていた。ぼくも、吉留の言葉から心が離せない。
   「え……、パティ……シェ……?じゃあ、大学は?」
   「製菓専門学校に通うつもりなんだ。まあ、大学も行ってみたいけどさ。でもやりたい事ができるのは、前者の方だし」
   「だってお前、ここ、進学校で……お前成績悪くはないし、今までがんばって、ここまで来たのに……大学に行かないのか?」
   「んー、勉強してここに来れたのは嬉しかったよ。でも、俺が勉強してたのは、やりたい事見つかるまでがんばろう、って思ってたからなんだ。とりあえず成績が良ければ、選択肢が広がるだろ。で、去年くらいなんだけど、決意したんだ。パティシェになろうって。迷いもあったり、親と何回か衝突もあったけど、今では応援してくれてるし、俺の決意も固まったよ。今は、知り合いのケーキ屋で勉強させてもらってる」
   「……」
   「って……思えばなんかこうやって夢の事話すんの、初めてだな。ちょっと照れくさいな。良かったら、衛の夢も聞かせてくれよ」
   「え……あ……」
   夢?
   そんなもの……考えた事すらない。小学生の時から乗せられたレール。決められたルート。ゴールは、大学生。大学生で、終わり。だから、大人になったら死のうと思っていたんだ。
   吉留の目は、澱んでいなかった。目を輝かせ、いきいきと脳内を語った。
   「ぼくの夢は……」
   脳内を探すが、見当たらない。違ったものなら、たくさん散らかっている。
   「……これから、考えるよ」
   「そっか。また見つかったら、教えてくれよな! ……って、うわああああああサンドイッチが爆発してるうあああああ」
   気が付いてなかったのかよ。
   弁当箱入れからティッシュを取出し、あたふたしている吉留に手渡してやる。と、紙切れが目に入った。
   「……」
   十分前に、一度読んだ文章だ。長い文でもない。内容は覚えていたが、ぼくはそれを取り出す。
   〈昨日は久しぶりに勉強の事とか話してくれてありがとう♪ これからもがんばってね〉
    十五秒程見つめ、カバンに仕舞った。
   「……明日の五限って数学だったよな。ちょっと課題が分かんないんだけどさ、良かったら教えてくれないか」
   「え、無理だわ。ぶっちゃけ俺も今の範囲全然分からん」
   「おい、何だよソレ。課題どうしてたんだよ」
   「いやー、それはそれは熱意と誠意を込めて、問題を解こうとした努力の跡を残しまくって提出したわ。勿論赤字まみれで返ってきたけどな!なはは!」
   声を上げて笑う吉留。サンドイッチはいまいち片付いていないが、こいつの脳内はすっきりとしているんだろうな。
   あー、なんだ。そんなもんなのな。
   重たい髪をばっさりと切った後の、癒真の笑顔を思い出す。
   ぼくを縛り付けて動けないようにしているものは何だろう。それを片づけていけるだろうか。まだ、分からない。これから考える。この事は、もしかしたら、すごくシンプルな事なのかもしれない。
 
 
   人というものはそう簡単には変われないとか、変わる時は一瞬で変われるだとか、人は変わらずにはいられないとか、世間では人間の変化について様々な見解があるが、一昨日凄まじい転機を向かえた私は、今のところ特に変わらず横たわっていた。
   というか、動けなかった。地上を洗う為に天の窓が開かれたかが如き雨を身体中で浴びた私は、すっかり風邪を引いてしまったのだ。体温を測ってみると、三十八度七分。白い壁が黄色く見える。ああ、古びた壁だから、もともとこんな色だっけ。
   水を飲み、布団に横たわる。汗ばんで、気持ち悪い。だが、着替える元気もシャワーを浴びる元気もない。一人暮らしで体調を崩すと、本当に困るものだな。
   タオルを引き寄せる。そして、顔を埋める。目を閉じて、探す。少し経って、うっすらと感じる事が出来た。井内君のにおいだ。ホッと安心する。と同時に、焦りも生まれた。確実ににおいが薄れていっている。
   一昨日、井内君が使ったタオル。彼が帰った後に、なんとなくにおいをかいでみた。そうしたら、たまらなく安心して、それから無性にドキドキしたのだ。思えば、さっきまで身を寄せ合ってパソコンを見ていたのだ。通じ合えた男の子が近くにいて、二人笑っていた。
   彼の存在は、これまでにない安心感だった。その夜私は飽きる事なく、彼のにおいを感じていた。においに慣れたら、夜風を浴びた。そしてすぐに、タオルに顔を埋め、彼の元へと戻った。気が付いたら、眠りについていた。
   そんな彼の安心感が、薄れつつある。私は、悲しくなった。ぼんやりとする意識の中、彼のにおいを想う。
   チャイムの音に少しずつ意識が覚醒させられる。誰か来たのか。身体は重たいが、行かなければ。鳴り続ける音に謝罪しながら、のったりと廊下を進み、鍵を開けて、ドアを開ける。
   宅配の制服を着たお兄さんが、段ボールを持って立っていた。ハンコを取りにいかねければと戻ろうとしたが、サインで良いと声をかけられる。良かった。所定の位置に名前を書く。そこで、お金を払わなければならない事に気が付く。結局戻らなければ。足と意識を引きずり、財布を持ってきて、お金を払う。お兄さんは爽やかに挨拶をして、私に段ボールを渡した。ドアがちゃり。
   随分大きいが、一体なんの荷物だろう。親が何か送ってきたのだろうか。居間に戻り、段ボールを置く。今のやり取りで、体力を使ってしまった。そのまま寝てしまいたがったが、荷物が気になる。こういうものは、開けておかないといけない気がするのだ。鋏で、段ボールを開封。出てきたのは、可愛らしい服だった。はて。
   一瞬キョトンとした後に、すぐに思い出してアッと声が出た。次々に服を取り出す。靴もある。全て、素敵だ。そうだ。一昨日、井内君と選んだ服だ。
   寝間着を脱ぎ去り、最初に手に取った服を着る。干してあった赤いスカートを取り、穿く。そして、鏡の前に。
   ……確かに分かった。井内君の言っていた事が、周りの人にバカにされていただろう事が。前まで、なんて不自然だったんだろう。そして、今のコーディネートはなんと自然なんだろう。赤が浮きすぎず、周りと調和しつつも自分の色を適度に放っている。上の服も画面で見たときは私には到底似合わないと思っていたが、着てみると優しく私を支えてくれていた。髪を切ったおかげでもあるのかもしれない。私は乱れていた髪を、ブラシで整える。そして、鏡を見る。
   素敵だ。だが、今の姿に魅入りすぎない。そのコーディネートは脱いで、次の服を手に取る。鏡で確認。先ほどよりは、少し違和感。……これは、もしかしたら、あのスカートの方が良いのだろうか。私は、ピンクのスカートを穿く。良い色合いになった。とても、嬉しい。コーディネートがたくさん考えられる。自分の可能性が、広がる。涙が出そうになった。赤い花だけに頼りきった独りよがりのコーディネートではない。井内君が、一緒に考えてくれたものだ。
   彼に見せたい、と思った。そして、ありがとうと言いたい。
   そうだ、早く外に出よう。シャワーを浴びて、髪を整えて、ドラッグストアで化粧水も買って、素敵なコーディネートを着て、外に出よう。外に出ないと、井内君に会えない。いつまでも寝そべっている暇はないのだ。私は、今、変わる時なのだ。
 
 
   それに気が付いたのは、癒真の部屋に入った日の夜だった。ご飯を食べてお風呂に入って、さあ、寝よう、と思ってベッドに入ったときに背中に違和感を覚えた。起き上がって見てみると、定期入れがあった。
   あ、と思った。あの日拾った、癒真の定期入れだ。寝る前に眺めていて、そのまま何日かベッドの中にあったんだな。この数日気が付かなかったなんて、不思議なものだ。
   さて、不思議だという事は置いといて、これをいつまでもぼくが持っていては、癒真が困るだろう。あれから三日経っているので、新しい定期券は買っているかもしれないが、それにしても学生証なんかはどうしようもないだろう。いや、もしかしたら大学で再発行はできるのかもしれない。そうだとしても、だ。返した方が良いだろう。変に不安材料を与えない方が良いと思うし、ぼくが持っておく理由もない……筈だ。よし、返そう。
   そう思ってから、さらに三日が経った。ぼくは焦り始めていた。癒真に会えない。今までどうやって癒真に会っていたっけ。朝、電車から尾けていた。癒真が一限始まりじゃない時には、高槻市駅で待っていた。そして、帰りを待って尾けた事もあった。そうやって、土日を除いて毎日会っていた。ではどうして、ここ三日は会えないのだろう。月曜……は、部屋に行った日だ。火曜は一限始まりの筈なのに、朝電車にいなかった。水曜は、三限始まり……。どちらの日も、夕方は行っていない。まだ金曜以外には、癒真が何時に授業を終えるのか知らないのだ。そして今朝も……一限始まりの筈なのに、朝の電車に癒真は居なかった。
   焦りが増すと共に、得体の知れないさみしさも感じ始めていた。癒真が遠いのだ。少しずつ近くに感じ、少しずつ手に入れた心地がして、そして月曜にはあんなに傍にいた。芯まで捉えたかのような思いだったのに、会えないのだ。
   そうだ、そもそも電車だって、毎回同じ車両に乗るとは限らない。そうすると、ぼくは癒真に会えなくなる。帰りの時間も金曜しか知らない。いや、あれだって実際ははっきりとはしないものだ。待ち合わせなんてできない。メールアドレスを知らない。そんな仲じゃない。ぼくは……ただの、ストーカーじゃないか。
   ストーカーが、相手に会えなくなったら、ただの他人だ。相手を切望するだけの、赤の他人。
   泣き出したくなる気持ちで、癒真の学生証を見つめる。お世辞にも可愛いとは言えない女子高生がこっちを見返す。
   今の癒真は、この写真より可愛くなったのだろうか。
   そう思った時に、強く感じた。癒真に会いに行かなければ。
   変化した癒真を見たいのか、癒真が遠いのがさみしいから会いに行きたいのかは、分からない。だが、定期入れより大事な理由がぼくを駆り立てるのは確かだった。
   よし、会いに行こう。今日会いに行こう。
   そう決意したところで、チャイムが鳴った。だが、まだ四限終了のチャイムだ。今日は五限まで授業がある。気が気でないまま昼ごはんを食べ、気が気でないまま、五限の数学の授業を受けた。ちゃんと課題は出した。きっと、赤ペンだらけで返ってくるだろうが、出した事は出したのだ。そうして授業が終わり、気が気でないまま岡元の話を聞き、ホームルームが終わると共に、教室を飛び出した。
   駆ける。ちょうどタイミング良く来ていたバスに乗る。バスに揺られて十五分。駅に着く。階段を駆け上がり、特急に乗った。
   そこで、思う。ぼくは、どこに行くんだ。今現在、癒真が何処にいるかなんて、分からないじゃないか。そんな事聞ける手段は持っていない。スマホを見る。十五時を過ぎたところだ。大学だと、何時間目なのだろう。分からない。ぼくには何も、分からない。
   辺りを見渡す。勿論、ここに癒真がいる筈はないのだが、しばらく探す。いない。念の為、隣の車両に移ってみた。大学生らしき人は何人かいた。だが、それを知って何になるのだと言うのだ。ぼくは席に座った。隣の女がこちらをちらり、と見る。何だよ、ぼくは何もしてないだろ。何かされると思ったのか、自意識過剰めが。
   電車が停車。高槻市に着いたようだ。開いたドアを、ぼぉっと眺める。間もなくして、閉じた。何故、身体が動かなかったのだろう。高槻市には癒真の大学があって、もしかしたら癒真がいるかもしれないのに。
   電車が動き始める。……まあ、良い。過ぎてしまった事は、もう仕方ない。桂まで行こう。そこには、癒真の家があるのだから。
   ぼくは息を吐く。身体を椅子に預け、力を抜く。何やらここまで慌てて来てしまったから、冷静じゃなかった気がするな。ここで一度落ち着こう。深呼吸。
   電車の椅子というのは、なかなか座り心地が良い。特に、阪急京都線の二人掛けのシートは正面に人が来ないので、良い。隣にも人が居なければ、最高なのだが。首を少し傾け、隣の女を見やる。雰囲気からして、この女も大学生のようだ。教科書のような本を読んでいる。なんだろう。……“スペイン語通訳者になるには”なんと。この女は通訳になりたいのか。それも、スペインとは。何か、理由があるのだろうか。スペイン語なんて、今まで全く触れた事もない、ぼくにとっては未知の世界だ。どんなものなのだろう。
   それが、この女の夢なのだろうか。
   ドキリ、とした。今まさに隣で、人間が夢の為に努力している。良く見てみると、女が履いているスウェットには“GAIDAI”と書かれていた。外大。外国語大学。きっとこの女は、大学でもその為の勉強をしているのだろう。夢の為に大学で勉強しているのか。大学とは、そういう場所なのか。
第一志望、東京大学なんたら学部。第二志望、東京大学ほにゃほにゃ学部。第三希望、京都大学うんたら学部。第四志望、京都大学のあれあれ学部。
ぼくは、どうやって大学を選んできただろう。“この夢を叶えるために”なんて、思った事がない。もしかして。もしかしてだけど、夢の無い人間は、大学に行ってはいけないのだろうか。
大人になったら、死のうと思っていた。ゴールしたら、生きるのをやめようと。
   なのに、ゴールはゴールではないのかもしれない。ぼくは、スタートすらできていなかったのかもしれない。
なら、今死ぬしかない。
   手首を見つめた。窓を見つめた。電車を感じた。
   隣の女は、ぼくが抱く思いなど知らないだろう、夢のページをめくり続けている。
   “衛の夢も聞かせてくれよ”
   頭に広がるのは、有象無象ばかり。こんなにもあるのに、何も見えない。もしかして、ここには何もないのではないか。たとえ懸命に探しても、輝くものが見つかる事はないんじゃないだろうか。
   絶望的な気分だ。ここのところ、少しずつ救われてきたかと思ったのに、ちょっと気を許せば、世間はぼくを突き落とす。そうして、高いところから笑いながら声を浴びせるのだ。“お前などに助けは来ない、来ないぞ。そこでもがいていろ”ぼくには壁をよじ登る元気もない。両手の爪は、もう全て折れてしまったんだ。
   目を閉じる。そうして、必死に思い浮かべようとする。探すのは、あの果実。ぼくの救いとなるべく存在。浮かんできた。花の中の秘密の実だ。ぼくだけが知る筈の実。
   再びぼくを笑う声がする。“何が秘密だ。お前は今、その花の在処すら知らないじゃないか。お前は花を見失った。花の事など、何も知らないんだ“突き落されたぼくに、泥が落とされる。もはやぼくには、上を見上げる元気もない。視界には汚い泥しかない。ぼくは泥と一体化していた。
   車内アナウンスが、もうすぐ桂だということを伝える。力なく窓に頭を委ねると、河原で野球をしている少年たちが目に映った。涙が出そうになった。
   桂に到着。ほとんど無意識のままに席を立ち、電車から降りる。のろのろと意識がついてきた。ともかく、定期入れは返さなければ。
   改札を抜け、東口の出口。そして気が付いたら、もうドラッグストアを通り過ぎるところだった。じきに癒真の家だ。ポケットに手を突っ込み、中身を取り出す。癒真の定期入れ。こんなもの、拾わなければ良かったのかもしれない。この数日、癒真に迷惑をかけた。定期の事だけではない。ぼくは何をした。ストーキング。盗撮。罪を背負っている。救われないのも、当然の事だ。
   今の行為は、せめてもの贖罪だ。これで赦される筈がないのだが。
   癒真のアパートが目に入る。ここがぼくの、最後の場所だ。
   階段を一歩一歩上る。身体は重く、道のりはとても長く感じられた。
   ようやく、部屋の前に辿り着く。右手に持った定期入れを眺め、そこで、人間らしい、俗物らしい意識を抱いた。どうやって、この定期入れを癒真の元へと渡そう。ただポストに入れるだけでは、ぼくだと気が付いて貰えないだろう。せっかくぼくが返すのに、癒真にただ落としていただけと思われるのはむなしい。
   勿論、ぼくの存在を確実に認識してもらえる方法は、直接渡すことであるが、それが出来たら苦労しない。まだ十六時にもなっていないし、癒真は帰宅していないだろう。
   それでは、メモでも残すか?カバンを開き、紙とペンと取り出す。
   〈ぼくの贖罪です。受け取ってください。それでは、さようなら〉
   ……なんだ、これは。ビリビリに破る。ぼくは、こんな恥ずかしい行為をしようとしていたのか?
   もっと、普通に書けば良いんだ。
   〈実は先日ストーキング中に拾いましたので、ここに返しておきます〉
   違う。事実ではあるのだが、正解ではない。事実が言いたい事と一致するとは、限らないものなのだ。
   どうすれば良いんだ。ドアを見つめて、困り果てた。まるで、鍵を失くしてしまった小学生のようだ。行く宛もなく、出来る事もなく、ただただ強固な扉の前で立ち尽くすのみの小学生だ。
   もう諦めてポストに入れてしまおうか。それか、いっそ今日は諦めて、またいつか電車で会った時にしようか。会えれば、だけど。
   ため息をつきながらノブを握ると、ガチャリ、と回った。予想外の動き。あれ。そのまま、ノブを引く。ドアが動いた。
   強固だと思っていたドアは、実にあっさりと開いた。鍵など、かかっていなかったのだ。
   少し呆然としたのちに、ドアを開ける。鍵が閉まっていないという事は、中にいるのだろうか。それにしても、若い女の一人暮らしなのだから、たとえ中にいようとも、これでは少し不用心だろう。注意してやらないといけない。
   「癒真……さん?いるのか?もしもし」
   玄関は暗く、ぼくの声が響くのみだ。
   「もしもーし……井内だけどさ。いるの?」
   返事はない。人の気配も、ない。
   やはり癒真はいないのだろうか。だとしたら、なおさら無施錠は危険だ。うっかり忘れたのだろうか。そんな油断はいけない。全く。その隙にどんな奴が入ってくるか分かったもんじゃないのに。
   耳を澄ます。音はない。さらに研ぎ澄ますと、水滴の落ちる音が聞こえた。水道がきちんと閉まっていないのだろうか。それから、家電か何かのモーター音。
   ぼくは、玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、足をそろっと廊下につける。そろっと。そろっと。そろっと。
   短い廊下だ、メインルームにはすぐに辿り着く。
   癒真は、居た。
   横たわっていた。
   赤いスカートを穿いて、白い足を存分に晒け出して、洗練された服を着て、横たわっていた。
   ぼくの目は、釘づけになる。目だけじゃない。身体も。意識も。全てが引き付けられ、動けない。
   黒い髪が乱れている。そこに野暮ったさや汚らしさはなく、言うならばそれは扇情的であった。ぼくは唾を飲み込む。髪に隠され、顔ははっきりと見えない。赤い唇だけが、黒と白い肌の間から覗いている。
   癒真の身体全体が、不思議な靄を発しているように見えた。獲物を誘うような、甘い毒を孕んでいそうな靄。ぼくはその靄に包まれる。脳がクラリとして、身体が熱くなってきた。
   引き寄せられるように、癒真に近づく。赤い花。ぼくは床に這いつくばり、その中を覗いた。
   果実だ!良かった。ぼくの果実はぼくから離れちゃいなかった。ここに変わらず、在ったんだ。絶望など消え去る。そんな事を思う暇などない。ぼくは果実を味わうのに忙しい。床に身体を預け、ごろり、ごろりと転がる。全身に、興奮の汗をかいていた。とても、気持ちいい。
   しばらくそうした後に思った。あれ、癒真は何をしてるのだろう。動かないけど、もしかして死んでいるのだろうか。ぼくは、涎を拭って起き上がる。そして、癒真の顔を眺める。髪を掻き分けると、紅に染まった顔が現れた。眉を顰めたまま、目を閉じている。鼻と口の前に手を持っていくと、僅かに呼気が感じられた。生きている。寝ているのか。何か、様子がおかしい。額に手を当てる。ぼくの身体以上に熱い。
   熱だ。風邪を引いているんだ。瞬時に、ぼくの脳内に天秤が現れた。この状態の癒真は非常に官能的だ。風邪が治ると、この味がなくなる。しかし、このまま体調を崩したまま治らず、もし死んでしまっては、ぼくの果実は完全に失われる。どうするか。答えは、すぐに決まった。
   洗面所に走り、適当にタオルをひっつかんで、水で濡らした。癒真の元へ戻り、顔を拭く。汗。目ヤニ。涎。それと、何か分からない汚れを拭き取る。もう一度濡らしにいくと共に、冷蔵庫を開け、水の入ったペットボトルも出した。濡らしたタオルで背中を拭く。お腹も拭く。癒真はブラを付けていなかった。胸も拭く。胸は思っていたよりも大きかった。汗が酷かったので、タオルを一度絞り直しに行く。足を拭く。スカートの中は、拭かなかった。
   背中に手を入れて癒真の身体を持ち上げ、床から布団へと移動させる。そして、上に掛布団をかけた。水は飲めるだろうか。さすがにこのまま口に突っ込むと、それが原因で命に支障をきたすかもしれない。少し悩み、ペットボトルを額に当ててみた。
   すると、癒真がゆっくりと目を開けた。
   「……れ……」
   「癒真?目が覚めたか?」
   「いうちくん……?わたし……」
   「大丈夫だ。無理しないで。とりあえず、水飲めるか?」
   癒真は目がうつろなままだが、こくりと頷いた。ぼくは、赤いくちびるに、ペットボトルの口を当てる。
   ゆっくりと傾け、水を注いだ。それを必死に飲む癒真は、力のない雛鳥のようだった。ぼくがいなければ、死んでしまうのだ。
   「っはぁ、……りがとぉ……」
   「大丈夫だから、今はゆっくり休んでいて。何か、して欲しい事とかあるか?」
癒真は、静かに涙を流した。
   「井内くん……」
   「どうしたの」
   「ありがとう。私、一人ですごく……心細くて、悲しく、て、不安で、このまま死んじゃうの、かと思った……シャワーを浴びようと思ってたのに、知らない間に倒れてた、みたいだし……」
   「……」
   「ありがとう……井内君は、私の救いだよ」
   癒真は静かにだが、涙を流し続けていた。あの日見た涙とは、違う種類のようだった。
   救い……ぼくが、救いなのか。この存在の救いが、ぼくなのか。これは、ぼくの思っていた事態より遥かに。
   ぼくは目を閉じた。
   「……まぁ、知ってる人が取り返しの付かない事になってしまうのは、気分が悪いものだしね。ずっとそんな調子だったんなら、ロクに何も食べてないでしょ。何か買ってくるよ」
   「やだ」
   強い声だった。
   「……」
   「ここにいて」
   「……でも」
   「食べるものなら、冷蔵庫にリンゴがあるから……」
   「……分かった。じゃあ、それを剥くよ」
   狭いキッチンまで歩き、冷蔵庫を開けると、確かにリンゴが入っていた。それを取り出し、流しに置いてあった包丁を使って切る。八つ切り。やっぱり、十六切り。適当な皿に乗せ、癒真の元へ。
   「食べれる?口開けて」
   小さく開いた口にリンゴを入れる。ショリ、ショリと言う音が小さく響いた。しばらくその作業を続ける。
   「……病院は行ったの?」
   癒真は首を横に振る。
   「薬は飲んでる?」
   またもや、首を横に振る。
   「飲まないの?」
   「……家にない……」
   ぼくはカバンを探る。確か、前に頭が痛くなった時に買ったものがある筈だ。
   あった。有名な総合感冒薬。
   「はい、これ飲んで」
   癒真は薬を受け取り、上半身を持ち上げて、水と共にそれを飲んだ。咽喉が動く様が情緒的だと思った。
   「……なにからなにまでありがとう、井内くん……」
   「いや、大丈夫」
   ふと背中の汗を感じ、部屋が暑いのだと気が付いた。風通しが悪く、じめじめとしている。しかし、風邪人がいる部屋で空調をガンガン入れる訳にはいかない。ぼくはブレザーを脱ぎ、ネクタイも取った。ボタンも一つ、外す。
   「しかし、こうして一人で住んでて風邪引くと、大変だな」
   「井内くんが来てくれたから、もう大丈夫」
   声に出して返事は出来なかった。
少しタイミングをずらしてから、次の言葉へと移る。
   「実家はこの辺じゃないの?」
   「うん、福井出身なの」
   「へぇ、福井。それで大学でこっち出てきて一人暮らしって訳か。……ってあれだね。大学は大阪なのに、京都に住んでるってちょっと遠いよね」
   「ああ、ここのアパートの大家さんが、私の叔母さんなの。だから、かなり安く住まわせて貰ってるの。両親としても、叔母さんのアパートの方が色々安心だしって」
   「なるほどね」
   色々と安心だし、といっても、実際癒真は色々と危ない目にあっている。まあ、子どもというものは、親の知らないトラブルに幾度も直面しているものだ。それは何人も避けられない事実なのだ。
   「癒真は、どうして今の大学を選んだの?」
   言ってから自分で驚いた。ほとんど無意識の内に自分の中から出てきた言葉だった。
   「え?」
   「いや、あのさ、ぼく今受験生な訳だから、大学について気になるなぁ、とか思って」
   一瞬キョトンとした癒真に、慌てて言い繕う。悪い事はしていない筈なのに、言い訳がましく、なにか弁解しているようだ。
   「ああ」
   ぼくは冷や汗を流していたが、癒真は特に不審に思っていない様子で、言葉を探し始めた。
   ホッと息をつくと共に、期待する。
   「私ね、すごく生きるのが下手なんだ」
   「え?うん」
   予想外の言葉に、少し戸惑った。しかし、癒真は言葉を続ける。
   「みんなの中で上手くやれないっていうかね……。流行に乗れなかったり、みんなが言うような恋愛が分からなかったり、いじめられた事もあったし、とにかく、生きるのが下手くそだったんだ」
   「……」
   「だから、どうしたら上手く生きていけるか考えたかった。だから、今の大学を選んだの。あ、言うのが遅れたけど、私の学部、社会学部なんだ。社会学って、そのまんまなんだけど、社会を学ぶ学問なの。社会を知り、調査し、見つめなおし、分析して、問題を解決する為の勉強をしているの」
   圧倒された。今までただの弱者か果実としか思っていなかった癒真が、こんな事を考えていただなんて。夢とはまた違うが、立派な目的を持って、大学に通っている。
   「……すごいね」
   「いやぁ、ま……」
   と、癒真の言葉が不自然に止まる。奇妙に思って顔を見てみると、彼女の目は何かを見つけたかのように、一点を見つめていた。そして、唇が震えた。
   「そっか。そうだったね」
   「……?」
   「井内くん、本当にありがとうね」
   大事な事を思い出したよ、と癒真は小さく呟いた。
   「いや……」
   ぼくには、続ける言葉が本当に見当たらなかった。
   癒真が羨ましかった。
   癒真は、こちらを見て、微笑んで言った。
   「井内くんは、どんな大学に行きたいの?」
   「あ……」
   何かが胸を襲いそうになったが、息を吸って吐いてみると、その脅威をあっさりと吐き出せる気がした。
   「……第一志望、東京大学
   「えっ、ほんとに!すごい」
   「第二志望、東京大学。第三志望、京都大学。第四志望、京都大学
   「……え?」
   「学部名なんて、覚えちゃいない。そこで出来る事なんて、見ていなかったんだ。……ぼくには、夢がないんだ」
   「……」
   「ただ、ランクが上だから、志望しただけ。それ以外の目的なんてない。ねぇ、ぼくなんかが大学に行っちゃいけないのかな」ゾンビだと思っていた周りの人が輝いているのに気が付いてしまって「……こわいんだ」
   「……」
    癒真は、困ったような顔をしていた、そうだよな。いきなりこんな事言われても、仕方ないよな。ぼくなんて、救いもないしな。
   「うーん……」
   下を向きそうになった時に、気が付いた。癒真は言葉を探して、必死で考えている。ぼくは、癒真を見つめた。
   「何て言ったら良いのか分からないんだけど、まず一番に私が思ったのは、すごいなぁって事。だってその大学を志望してるって言える程、今まで頑張って勉強してきたんでしょ。私、そこまで成績が良くなかったから、井内くんが輝いて見えるよ」
   「そんなの……!別に……志望してるってだけなら、誰でも言えるから」
   「でも、成績は良いんでしょ?」
   「や、まぁ……そこそこだけど……。でも、ぼくは……数学が苦手だから、それが足を引っ張って、良い判定が出ない。英語や日本史だけなら、B判定くらい出るのに」
   「すごい!その二教科が得意なんだ。……じゃあ、数学のいらないとこに進めば良いんじゃない?」
   「え?」
   「あ、あの、あんまり成績も良くなかった私の考えだし、気分が悪くなっちゃったらごめんね!あのね、私が思う事はね、苦手な事に引っ張られすぎる事はないって事なんだ。あ……まあ、私は生きるのが苦手って事に引っ張られてるかもしれないけどさ、でもこれは、解決したいものだから。とにかく、井内くんが英語と日本史が得意なのなら、今からはそれを大事にして、そこが伸ばせるとこに行けば良いんじゃないかな」
   「数学を……捨てる?」
   「あ、あくまでも私の考えだよ。もしかしたら、井内くんなら今から頑張って、数学も得意になって東京大学に行けるかもしれないよ。……でも、今さっき大学の話を始めた井内くんは、すごくつらそうに見えたから。そういう道を良いんじゃないかなって……」
    「……」
   驚きだ。衝撃が大きくて、整理が追い付かなくて、言葉が出てこない。もし、数学を受験に考えなくて良いのだと思うと、それはどれ程楽な事だろう。……だけど、それは逃げではないのか?
   「あとね、もう一個。……“すごいなぁ”以外に、私が井内くんの話を聞いて思った事ね」
   癒真は息を吸う。
   「井内くんが大学に行っちゃいけない、なんて事はないよ。今は夢が無くたって良いと思うんだ。大学って、夢を持った人が行くところなんだけど、夢を見つける為に行く人もいるんだ」
   「夢を見つける……?」
   「そう。大学では、色んな世界が見つかるの。だから夢を持って入った人でも、別の夢を見つける事もある。それでも良いと思うの、とにかく、夢に溢れている場所だから。誰に咎められる必要もない。だから、井内くんは少しでも気になった大学を志望すれば良い。ランクの高い大学でも、数学のいらない大学でも、近所の大学でも、どんなとこでも、気になったところを。そこに、夢を見つけにいけば良いんだよ」
   言い終わった後に、癒真はハッと目を見開き、そして恥ずかしそうに俯いた。
   「ご、ごめんね……つい、熱くなっちゃった」
   「いや、謝る必要なんてない」むしろ「……ありがとう」
   癒真の言葉は、次々にぼくに響いた。まだ整理ができていない筈だったが、不思議と脳内はすっきりとしているようだ。要らないものがいくつか、打ち砕かれたのだろう。
   まだ、気持ちの整理はつかない。だが、これだけは分かる。ぼくは、癒真に感謝している。
   ああ、この出会いがあって良かった。
   ぼくはズボンのポケットから、定期入れを取り出した  
   「……癒真、これ」
   「……あ、私の定期入れ!」
   「実は拾ったんだけど、持ったままになっちゃていて……返すのが遅くなってごめん」
   「謝る必要なんて、ないよ」
   癒真は手を伸ばし、笑顔で定期入れを手に取った。
   「どうもありがとう!」