3 さて、問題。ストーカーです!

第三章「解答」
 
   さて、ぼくの答えは何か。
   人間は、常に問題と出会う。大なり小なり、ソレらと向き合い続けるものなのだ。ここで言う問題とは、困った出来事・難儀な案件といった意味での問題でも、質問・設問……つまり、テストの出題的といった意味での問題でもある。どちらにせよ、解答が必要なのだ。何者かから絶えず作られる問題に答え続ける……これが、生きるという事なのだ。
   問題が難しかったり、増えたりすると、人は酷く悩み苦しむ。考えても考えても答えが出ず、問題に屈してしまいそうになる時、人は絶望を抱く。駄目だ、こんな問題があるのなら、自分は生きていけない。先が見えない。二度と起き上がれない。笑えない。輝きを抱けない。死んでしまいたい。そうして、敗北した時、人の命は終焉を迎える。命半ばにして、ゲームオーバーとなってしまうのだ。
   ぼくは。ここのところのぼくは、ずっとゾンビであった。ゾンビであるという事は、生きるのを半分放棄しているのだ。問題の脅威に脅かされ続けた結果だ。だが同時に、ゾンビであるという事は、死ぬ事を拒否している事実もあるのだ。ぼくはぼくを囲む問題に震えながらも、ソイツらに負けてしまう事は嫌がっていた。果てそうな魂の底で、必死で抵抗し続けていたのだ。そう、思いたい。今なら、そう、思える。
   さて、ぼくの答えは何か。
   最近のぼくは問題を抱えていた。大きな問題。たくさんの問題。難しい問題。それは、受験の事であったし、夢の事であったし、母親との関係であったし、青春の不安、楽しさへの切望、異性への興味……きっと、そんなような様々のものが手を繋いで、くっついて、入り交ざって、大変な脅威となっていたのだろう。最近のぼくは、と言ったが、実際はこれらの問題の種はもっと昔に蒔かれて、ぼくが成長するにつれて芽生えていったものなのだろう。ぼくの身体や心に強く絡まってきたのが、今この時期であったというだけだ。つまり、これの答えを出せば、ぼくは驚くような解放感を手にする筈だ。これまで見た事もかったような景色に涙するかもしれない。これは、チャンスだ。良い機会なのだ。ぼくは、楽しみだ。ぼくは、楽しみだ。
   さて、ぼくの答えとは何か。
   良い機会だとは言ったが、これは簡単なものではない。この問題は、これまでずっとぼくの傍で育って、絡み付いてきたものなのだ。いや、ひょっとしたら、ぼくの中で育っていたのかもしれない。何にせよ、コイツに答えを与えてやるのは至難の業だ。
   意識せずとも、ソコにあり続けたものなのだ。意識なしにあり続けたという事は、最早この問題はぼくの一部なのかもしれない。そう思うと、相手どるのは尚更難しい。ぼくは、ぼくの心臓に言ってやらねばならいのだ。コイツを育てるに至った、己が愚考を。己が愚行を。己に対して反旗を翻さねばならない。これは、戦いだ。
   ここで一つ、覚えておくべき大事な事がある。これは戦いだが、殲滅戦では無いという事だ。ぼくは、ぼくを滅ぼす必要はない。なに、少しビンタして、水をかけて、目を覚まさせてやるだけだ。そう考えると、これまで至難の極みと思えたものが、少しほどけたように感じた。確かに難しいけど、シンプルなのだ。
   ……この考えは、半ば言い聞かせのようなものだろう。ぼくは足が竦んで膝が震えるのを誤魔化す為に、必死で自分を奮い立たせている。大丈夫だ。そうだ、確かに怖いのだが、この恐怖は問題に襲われている時の恐怖とは種類が違う。立ち向かう勇気を得る為の恐怖だ。だから、大丈夫。こんな恐怖、ちょっとしたら、消えてしまう。そうだ、深呼吸をしよう。ひと呼吸。ふた呼吸。み呼吸。ぼくから息が出ていき、新しいものが深く取り込まれる。眉間から力が抜ける。
 
   ぼくは、具体的に何を考えてきたのだろう。何をしてきただろう。どこで問題に取り込まれてしまっただろう。
ぼくはがんばって、がんばって、ゴールを目指そうとしていた。それは決して間違いではない筈だ。あの時の小学生のぼくは確かに、あの大学生のお兄さんに憧れていた。あの人は輝いていた。ぼくは、大学生になりたかったんだ。がんばって勉強していると、お母さんも褒めてくれた。先生も褒めてくれたし、クラスメイト達が輝いた目で見てくれた。彼らに勉強を教える事もあった。
   中学校に入った時はどうだ?ぼくはがんばっていた。周りのクラスメイトがふざけて遊んでいる時も、ぼくはがんばっていた。変わらずがんばっていたな。じゃあ、ここもこれで良かったんだろうか。不意に、中学生のぼくがこちらを見る。中学生のぼくと目が合う。中学生のぼくが口を開く。「もっとみんなと遊びたかったよ」中学生のぼくは、少しさみしそうな目をしていた。そうだ、この頃から勉強ばかり優秀でも、小学生の頃のようにはみんなは接してくれなかった。母親は変わらず褒めてくれたが、クラスメイト達は何処か冷たかった。遊びにノリの悪いぼくと進んで接したがらなかったのだろう。昔は自然と傍にいた友達が、少しずつ離れていく。ぼくは指を咥えるような心地で彼らを見つめ、ノートに向かう。先生はぼくを優秀だから、と評した。だが、その言葉には、クラスの悪ガキ達に向けられるような温かみが乏しいように感じた。
   「ごめん、ごめんね」ぼくは、中学生のぼくに言った。「いいや、きみだけが悪い訳じゃない。こうやって勉強し続けているのはぼくなのだから。それに」中学生のぼくは目を伏せた。「そうやって、未来のぼくに謝られると、なんだか悲しくなる」「そうだね。そうだよね。じゃあさ」ぼくは息を吸い込む。「ありがとう。がんばってくれて、ありがとう。これからは、がんばりながら、きみの願いも叶えられるようにするよ」中学生のぼくは、驚いたように目を見開いて、ぼくを見つめた。そして、笑って言った。「ありがとう」
   高校になってからはどうだ?ここで、色んな問題が成長したように思える。進学校とはぼくが思っていた以上にレベルが高くて、驚いた。クラスの中の勉強の出来る子、という立ち位置から一気に転がり落ちた。それでも、最初は満足していた。この環境に来られた事を、誇らしく感じていた。初めての定期試験の日、学校が早く終わったので、早く家に帰って勉強をしようと思っていたさなかに、中学時代の同級生を見かけた。といっても、数秒程誰だか分らなかった。明るく染めた髪に、着崩した制服。去年までクラスが同じだった潮田だと分かった時は本当に驚いた。慌てて視線を下げ、道路の端へと寄る。こっちを見ている気配がないので、少し視線を上げる。潮田は派手な女と一緒だ。楽しそうにカラオケの計画を立てている。その女は派手だが、可愛らしい。女子は化粧をしていると、そう見えるものなのだろうか。そう考えながら眺めていて数秒、ようやく気が付いた。もしかして、こいつは仁科なのか。仁科マヤ。潮田と同じくぼくが中学三年の時のクラスメイトであり、そしてクラスの女子の中で断トツと言える程に可愛かった。
   ……この判断はぼく個人によるものなのだが。一緒のクラスになってから一年間ずっと話しかけたかったが、なかなか叶わない。まあ、美少女とは遠くから眺めるものなのだろう。そう思って自分の気持ちを落ち着かせ続けたぼくが仁科と話す事は、とうとうなかった。もしかしたら仁科は、ぼくとクラスメイトだった事すら知らないかもしれない。でも、美少女だから仕方ない。美少女には、そう簡単に近づけないものだ。そうやって自分の感情を誤魔化し続けてきた相手が、今目の前にいる。同じようにかつてのクラスメイトである潮田と笑顔を並べている。堪らなくなって、今すぐ駆け出したくなった。でも、動けない。二人が通り過ぎるまでは、じっと背景と化しておかなければならない。そうして二人が通り過ぎ、気配も声も何もなくなった後に、全力で走った。
   「仁科が好きだった?」ぼくは呟く。すると、目の前にぼくが現れた。今から一、二年前のぼくだから、背丈は殆ど変らない。顔には既に絶望が映り始めている。「さあね。可愛いとは思っていたけど、どうにもならないよ」「どうにもならない?」「うん。ぼくにはね」
   確か、その時の定期試験はボロボロだった。中学生時代にいた酷い成績のクラスメイトのような点まではさすがにいかなかったが、それでもぼくが取った点数はこの学校ではあり得ないものだった。信じられない、といった目を先生にされたものだ。こういう時、中学生時代のクラスメイトはどうしていた?確か、先生には怒られながらもどこか温かみのある言葉をかけられていた。そして、その酷い点数が書かれた紙を広げて、仲間内で盛り上がっていた。点数は低いのに、テンションは本当に高かった。周りの奴らは笑っていた。仁科もだ。仁科も呆れたようにしながら、でも楽しそうに笑っていた。じゃあ、高校で酷い点を取ったぼくもそうすれば良いのか?でも、ぼくにはそんな仲間はいない。それに、この環境でそんな事をすれば、冷たい目で見られるのがオチだろう。ここは、そういう場所なんだ。がんばってきた人だけが来る事ができる、選ばれた場所。
   「高校が好き?」ぼくは呟いた。目の前のぼくは暗い顔をする。「分からない。がんばってきたぼくが来るべき場所の筈なのに、ぼくはここでも浮いてしまうんだ」「何が駄目なんだろう」「分からない」「……きっと、迷いがあったんだ」
   母親との関係の悪さは、中学時代からも少しはあった。それでも、中学生の頃は何とか取り繕ってきた。だが、学校生活での鬱憤が溜まるごとにソレは上手くいかなくなっていった。母親が思うだろう“優秀で勉強の良くできる息子”はもういないのだと感じる程に、母親と顔を合わせるのが苦痛となっていった。口論が増えた。
   「母親が嫌い?」ぼくは呟いた。目の前のぼくは哀しい顔をする。「そういう訳じゃないよ。家族だしね。でも」「でも?」「でも、もう上手くいかないんじゃないかって思える」「色んな事が上手くいかないね」「……そうだ。ぼくは、ぼくばっかり、色んな事が上手くいかない。みんなは上手くいってるのに」
   目の前のぼくは歯ぎしりをして、声を張り上げた。
   「どうしてぼくは上手くいかないんだ!もう少し、もう少し何かが違えば上手くいく筈なのに……!」
   「その通りだ」
   「え?」
   ぼくは、キョトンとした顔で涙を流しながらこちらを見た。ぼくも涙が出そうだ。でも、ぐっと耐える。堪えているつもりだが、もしかしたら流れ出ているかもしれない。
   「もう少し何かが違えば、きっと全てが上手くいくんだよ」
   だから。
   「これからぼくは、そのもう少しを手に入れる。もう少し考えを変えて、上手くいくようにする」
   だから。
   「これまでおつかれさま。がんばったね。ありがとう、ありがとう。ありがとう」
   滴が顎を伝っていた。
   鋏を取り出す。ぼくにしつこく絡まる蔦を切らなければ。
   さて、ぼくの答えとは何か。
   ぼくの答えとは何か。
 
 
   禁断の果実について、考える。
   初めにその発想に至ったのは、確か電車内で痴漢を目撃したからだった。それは、純粋たる性欲からなる行為ではない。サラリーマンのストレス解消。相手を虐げる優越感。リスクの中、タブーを犯す緊張感。それらが合わさって生まれる快楽が、禁断の果実の味。最初はそう、認識した。
   こういった果実は、人間誰しも心の底で欲しているものだろう。例えば、未成年のたばこや酒。例えば、店に並べられた商品をポケットに入れる事。例えば、年頃の妹への興味。人によってその種類は様々で、全て挙げる事など叶わない。他人から見ると馬鹿馬鹿しく思える只の犯罪でも、当人にとっては魅力ある誘いなのだ。それは非常に良い味がするのだろう。脳の芯を眩ませる、強い香りがする。
   だから、ぼくも欲しくなった。問題にがんじがらめにされたぼくは毎日を生きるのが辛く、助けを求めて、トリップを選んだ。少し現実から目を逸らす事が出来るのなら、それで良い。
   そう思ってぼくが噛り付いた果実は、甘い甘い毒だった。少しだけ、と含んだ毒はぼくを捉えて離さず、ぼくはどんどんその魅力に呑まれていった。果実を味わっている間は蕩けそうな程に幸せで、少し遠ざかってしまうと不安になる。ぼくはすっかり中毒患者になっていた。
   これでいいんだ、と思っていた。痺れた脳がそう判断し続けた。家で暴れたり、誰かを殴ったり、学校で銃をぶっ放す代わりに、この刺激があるのだ。この味のお蔭で、他の問題が抑制されている。何処かでそう、信じていた。
   だが、現実はそうではないのだ。問題に答えが出されないままに抑制される筈がなく、大人しく思えたのは、ぼくの脳が蕩けていて気が付かなかっただけ。むしろ目を背けている間に、問題はどんどんぼくを締め付けていく。その圧迫感に気が付いた頃に、もう一つ知ってしまう。甘く魅力ある果実も、実は大きな問題なのだという事を。
   そうなると、もうまともに息ができない。苦しんで苦しんで、締め付ける問題から意識を逸らす為に果実にすがろうとするが、それ自身もどうしようもない問題。その事を知ってしまってはいるが、それを喰らう以外に救われる道も分からない。泣きながら、息をひゅうひゅうと吐きながら、涎を垂らしながら、果実をむさぼり続ける。
   禁断の果実とは、そういうものだったのだ。
   今のぼくには、そう判断できる程の冷静さと客観性がある。
   ここで一つ、ぼく自身に確認しておきたい事がある。
   それは“では、ぼくが禁断の果実を齧った事は正解だったのか、間違いだったのか”という事だ。
   ……いや、少し違うかもしれない。
“ぼくは禁断の果実と出会えて幸せか”
こうしよう。
 
   さて、ぼくの答えとは何か。
 
 
   癒真について、考える。
   禁断の果実。ぼくにとっては、まず、そうだった。
   だが、他者にとっては違っただろう。癒真は、ただのダサい女子大生だ。自分で服を買った事なんてなくて、親が選んだものを着ているんじゃないかって思える格好。中学生のような靴下に靴。その顔は、ナチュラルメイクなんて言葉では誤魔化せない。化粧をあまりしない子が好みなんて言っている男子も、癒真を見たら発言を訂正せざるを得ないだろう。女子の自然な可愛さは、自然に作られるものではないという事を思い知らされる。癒真の髪を見ていると、世間の女子が如何に髪のセットをがんばっているのかという事が窺える。癒真は女子の汚点であり、周りの女子たちの完全なる引き立て役であるのだ。癒真は、本当にダサい女子大生だ。癒真と出会う人出会う人がそう思っていただろう。
   だが、そんな癒真に変革の時が訪れた。癒真はぼくにとって、禁断の果実かつ変革の存在となった。
   癒真の変革の様は、他者から見たら、実に滑稽だっただろう。癒真にとっての完璧な正解は、他者にとっての大間違い。ああ、癒真は馬鹿だ。その中途半端さが他人に馬鹿にされている事に気が付かず、自信たっぷりに赤い花を揺らす。癒真もある意味、トリップしていたのかもしれない。現実が見えずに、夢の世界で舞っていた。でも、癒真のトリップは禁断の果実ではない。癒真は誰にも迷惑をかけていないし、そもそも禁忌を犯していない。癒真は馬鹿で、愚鈍で、素直だから、禁断に手を出す事なんてできない。癒真には、できないんだ。
   癒真は本当に馬鹿だから、自分が一番の友達だと思っていた相手にも影で馬鹿にされている。そうして利用されている事なんて、癒真は気が付かない。気が付かないのは癒真だけで、きっと癒真以外の周りの人たちはみんな知っていただろう。癒真は馬鹿だ。鈍間の間抜けだ。
   そんな癒真が、男を好きになっただって!勿論人間なのだから、別に人を好きになる事は悪い事ではない。でも、癒真は馬鹿だから、その相手と方法とを間違えている。なんて馬鹿で、可哀想な癒真。癒真以外の人間はみんな、癒真の恋が馬鹿らしい事が分かるのに、その真ん中で癒真は目を輝かせて、胸をときめかせ、花を揺らしている。なんて愚かで滑稽なのだろう。
そして、花は無残に散った。
   この結果は誰にだって予想がつく。むしろ、今まで何も知らずに幸せに過ごせて良かったね、と癒真に言いたくなるだろう。
   ぼくは、そんな癒真に手を伸ばした。そうしたら、癒真はぼくの手を握った。
   そこからだ。癒真が輝き始めた。だが、禁断性も孕んでいる。癒真はぼくにとって、聖なる輝きと甘い毒の魅力とを二面的に抱く存在となった。癒真はぼくを快楽に沈めながら苦しめる果実なのか。それとも、ぼくを救う為に揺れる美しい花なのか。
   癒真は、馬鹿だけど、夢を持っている。夢を語る癒真は力強かった。
   癒真は、ぼくの問題に対して、答えのヒントをくれた。ぼくを導いた。
   癒真は、出会った頃より、ずっと綺麗になった。服装もそうだけど、自信がついた事による笑顔が綺麗なのだろう。
   癒真は。
   ぼくは、癒真が。
 
 
   さて、ぼくの答えは何か。