2-⑶ さて、問題。ストーカーです!




   「……はい。このタオル使って良いから。中にある物も自由に使って良いよ。服は……多分ジャージなら入ると思うから探しとくよ」
   「はい、ありがとうございます……」
   高校生……井内君は小さく返事をして、風呂場へと入っていった。最初の勢いが窺えない程、大人しくなっていた。
   不思議な状況となった。
   初対面の男子高校生を家に上げ、シャワーを貸している。こんな事、あるのだろうか。水の音が聞こえてきた。    
   ああ、ジャージを探すんだった。
   引き出しを探って、ジャージを取り出す。これで良いのだろうか。果たして、サイズは合うだろうか。井内君は特別大きいと云う事は無かったが、私よりかは背が高かった。男の子に服を貸すなんて、勿論初めての事なので、勝手が分からない。
   少しの間悩んだが、これ以外に貸せるものもないので仕方ない。ジャージを持って、風呂場へと向かう。こっそりと様子を窺い、相手がまだシャワー室にいる事を確信して、入り口にジャージを置く。脱いであったシャツとズボンを回収しようかと思ったが、緊張して手に取れなかった。
   居間に戻る。と、ドアが開く音。たった今出てきたようだ。ぎりぎりセーフだった。もし私がいる時に出てきていたら……。想像してもぽわぽわとした何かと恥じらいしか出てこなかったので、頭を振ってイメージを止める。しかし、脱衣所から聞こえてくる布の擦れる音が、私の顔を赤くさせたままだった。
   程なくして、井内君が居間に現れた。風呂あがりの男の子(父親は除く)を見るなんてはじめてで、少しドキドキとした。
   「シャワー、ありがとうございました……」
   「あ、いえ、あの、」
   ジャージのサイズについて聞きたかったが、上手く言葉を成せなかった。直視は出来ないが、着られているようだし、おそらく大丈夫なのだろう。そう信じたい。
   束の間の静寂。
   「えと……」
   「あの……」
   切り出した言葉が重なってしまった。顔が熱くなる。
   「あっ、えっ、す、すいませ、な、なんですか」
   「あ、いや……アンタはシャワー浴びないのかな、って思いまして……」
   井内君は、私を眺めながら言う。その視線につられて、ようやく自分の姿を確認した。全身どろどろで、汚らしい。途端に、恥ずかしくなった。
   「あ、の、私は大丈夫だから!着替えてくるだけ、着替えてきます!」
   適当に服を引っ掴んで、風呂場へと駆ける。脱衣所に立ち、汚れた服を脱ぎ去る。
   と、その時に思った。男の人がいる近くでこんなに無防備に裸になって、大丈夫なのか。何かあったらどうするんだ。居間の方の気配を窺う。
   すぐに、思い直した。何考えてるんだ。私なんかが、男の人といたところで、どうなる。何かあるはずがない、じゃないか。下着を外した。脱いだ服をまとめようとして、スカートが目に入った。驚く程汚い。少しだけ、目が潤んだ。
   鏡で身体を見てみると、とても汚れている。しかし、着替えてくるだけと言ってしまった。あまりに戻るのが遅いのは、いけない。私はタオルを濡らし、身体を拭いた。髪にすこしだけお湯をかける。顔はじゃぶじゃぶと洗った。
   早く戻らなければ。下着……も随分と濡れてしまっているが、新しい物を取ってくるのを忘れていた。もちろん、この状態で居間に取りに行く訳にはいかない。
   ……仕方ない。もともと、付けていたものだし、少しくらい良いだろう。雨に犯された下着をつけると、身体の芯がひんやりとした。
   服を着る。これで問題ないかと鏡を見て、慌てた。濡れた下着が透けてしまっている。急いでドライヤーで服の上から乾かす。急げ。急げ。相手に不審に思われないようにしなくては。熱風が身体を這う。
   ある程度乾いたと思われるところで、タオルをかけておけばいいのだと思いつき、新しいタオルを肩に掛けて、急いで居間へと戻った。時間がかかってしまった。
   「あ……おかえりなさい」
   「ど、どうも……ただいま」
   そこには、男子高校生の姿が変わらず在った。分かっていたはずなのだが、心臓には動揺が走った。自分の部屋に男の子がいるなんて。
   どういう顔をすれば、どういう言葉を発すれば、どういう姿勢でいればいいのか何もかも分からず、私はただ立っていた。言葉は出ないままなのに、無駄に笑顔を作ろうと努力してみたりしていた。一方、井内君は座っていた。言葉は何も発せず床に座り、どこかを見つめていた。何を見ているのだろう。視線は少しずつ、動く。ゆっくりと動く。その様子は、ぼーっとしているだけな訳ではないように思える。
改めて良く見てみると、綺麗な顔立ちだと感じられた。
   こうやって男の子の顔を見つめる機会なんて、滅多とないから、この顔立ちが平均以上なものか否なのか分からないのだが。高校三年生だったか。とすると、二歳下になるのか。
   “――この一週間と少し、アンタの事をストーキングしていました”
   相手の告白を思い出し、ドキリとする。そうだ。そうなのだ。
   二人して全身ずぶ濡れの泥まみれで乗った電車。その中で、井内君はぽつり、ぽつりと話した。ここ数日の話。今日抱いたという感情のあらまし。私は彼の告白を静かに、聞き遂げた。そして何故か、本当に何故か、私も話していた。これまでのみじめな自分。赤い花。初めて会った筈なのに、自分の抱えていたものが、するすると話せた。みじめさのあまり、涙は溢れたが、私は話した。井内君はそれを静かに聞いていた。
   そして……今日の絶望は、まだ話していない。それを告白するには時間が足りなかったし、覚悟もできていなかった。そうして駅に着き、コンビニで傘を買い(どう考えても今更な行為だったが、気持ちの問題なのだ)こうして家までやってきた。
   井内君は、既に私の家を知っていたらしい。ストーカーってすごいんだな、と感じた。
   いざ家に着いてしまうと、服を拭いたりシャワーを貸したりとで、会話が途切れてしまい、気まずい空気となってしまった。そう感じているのは私だけなのかもしれないが。
   ……彼に対して、自分がどういう感情を抱いているのかが、分からない。
そもそも、彼はストーカーだ。私を一週間以上ストーキングしていた。大学も、家も、名前までも知っていた。十分に恐るべき条件は揃っている。
   だが、その条件で相手を恐れるのは、普通の女の子だろう。可愛くて、輝いていて、きらきらと幸せな女の子。私はというと、その話を聞いた時に胸を高鳴らせた。私をストーキングするという事は、つまり私に興味を抱いてくれているのだ。私に対して、女に対する興味を抱いている。そう考えると、涙が出そうにもなった。絶望に在った私を引き上げてくれるかのような告白だったのだ。
   しかし、その感情よりも前にあったのは、同調だったのだと思う。彼の涙が、死に瀕していた私の心を、再生させた。あの時私と同じように雨に犯され、泥にまみれ、涙を流していた彼に強いシンパシーを感じたのは事実だ。
感じたのは、シンパシーだけではない。私を止める声。彼の必死な叫びが、文字通り私の命を救ったのだ。彼には感謝すべきだろう。
   ところが、その後に私に向かって話す彼はとても弱弱しく、今にも倒れてしまいそうなのであった。まるで、これまで救いを求める旗を振り回して、振って、振り続けたが、一向に救いが来ないから疲れ果ててしまったようだった。
   彼は、何なのだろう。私は彼を、どう思っているのだろう。彼は、私をどうしたいのだろう。
   分からない。分からないけど、今感じる事はあった。
   彼は、今の私に必要なのだ。
   「……あのさ、井内君」
   井内君は、視線をこちらへと向けた。酷く疲れたように見えた。きっと私も、似たような目をしているのだろう。
   「何ですか」
   「電車の中で、言い損ねた事。今、話したい事があるんだけど……良いかな?」
   井内君は私をじぃっと見て、黙って頷いた。
   私は……話し始めた。
   今日抱いた絶望。自分の思い上がり、勘違い。不相応だったスカートに、似合わない化粧。望むだけ無駄な恋。かつての聖母。光。奈落に落とされた心地。これまでの大学生活の崩壊。
   何かの栓が抜けてしまったかのように、涙が溢れ出して止まらない。二度と笑えない、泣けない、心が動かないと感じた絶望を、嗚咽混じりに話す。話す。溢れ、零れる。
   途中から意識せずとも、言葉が零れてきた。思考が追い付かないままに、次々に言葉を吐き出す。
   そうして、私にこびりついていたものを語り終えた。どのくらいの時間話したのかは、分からない。その間、井内君はじっと黙って、真剣な眼差しをして、聞いてくれていた。語り終えた後も、私は泣いていた。
   「……こうやって泣いている女を、励ます事はできないんだけど」
   みっともなく涙を流し続ける私に向かって、井内君は言葉をかける。
   「ぼくは、ぼくに出来る事をしようと思う、んです。これはきっと、人間としては、男としては、間違ってるのだと思う」
   「……間違ってる?」そんなの。「これまでもずっとそうだったよ、私たち……」
   「そうかもね。でも何が間違いって誰かが勝手に決めてるんじゃないのか。ぼくたち、それに振り回される必要なんて無い」
   その言葉には、重みが感じられた。
   「……」
   「だから、ぼくに出来る事」
   井内君は大きく息を吸った。
   「とんでもなくダサいアンタに、女の魅力を上げる方法を、アドバイスする」
   まさかと言えば、まさかの言葉だった。
   でも、それは確実に私に必要なものだ。
 
 
   「まず、あのスカート。赤いスカートあったじゃん。アンタにとっての花なんだっけ」
   「……うん」
   とんでもなく恥ずかしい筈だったか、何故か向き合えた。
   「あれを穿いてるとこ、見たけどさ。そのスカートの良さを引き出せてないってか、すっごいバランスが悪かった。何でか分かる?」
   「そ、それは……私が、お姉さんじゃないから。私が、私だから」
   「それは違う。半分違う。良いか、バランスが悪いって言ったんだ。スカートが他と合っていない。つまり、スカートは洗練されているのに、スカート以外はダサいんだ。ぼくも女の子のファッションなんてそこまで分からないけどさ……なんでスカートに気を回したのに、上の服とか、靴とかは意識しなかったの?」
   「あ……」
   まさに、目からウロコだった。
   「パソコン持ってる?」
   「あ、うん」
   「貸して。起動させて」
   「あ、うん」
   パソコンを引っ張り出し、電源をつける。井内君は画面を自分の方へと向けた。しかし、すぐに私の方へと戻した。
   「パスワード」
   「あ、はい」
   私は言われるがままに動く。パスワードを入力すると、井内君は画面を再び、自分の方へと向けた。カタカタカタ。パソコンを触っている人間は、すぐそばに居ても、何故かとても遠くに感じてしまう。
   「これ」不意に、画面が私の方へと向けられた。「こういうの、着ないの?」
   画面に映るのは、ふんわりとした可愛らしい服。着ているのは、とても可愛いお姉さんたち。
   「これは……私には、似合わないよ」
   「あっそ。あんな短いスカートには手を出す癖に、他の挑戦はできないんだね。そんなんだから、いつまで経っても中途半端で、中学生みたいにダサいんだよ」
   ぐっさりと、井内君の言葉が刺さった。と、共にムッとした。
   「……やっぱり着る」
   「着んの?アンタには似合わないんじゃないの?」
   「着てみないと分からないもん。着るって言ってるの!」
   言った直後に、心がひやっとした。勢いに任せて大きな声を出してしまった。せっかく私にアドバイスをしてくれようとしているのに、怒らせてしまう。
   「ふぅん。そうだよね、着てみないと分からないよ。じゃあ、買うね」
   井内君は私の想像より、冷静なリアクションをした。良かった。……って 何て?
   「え、買う?」
   「当たり前でしょ。買わなきゃどうやって着るのさ。アンタ、サイズ何?」
   「Mだけど……」
   「ふぅん、じゃあこれとかかな」
   「ちょ、ちょっと」
   「こういうのも良いんじゃない?」
   「ちょっと待って!」
   またもや、大きな声を出してしまう。だが、さっきのようには焦らなかった。
   「なに」
   「私が着るから、私も選ぶ」
   はっきりと、言った。しっかりと井内君と目が合う。三秒。
   井内君は、画面を調節し、二人ともが見やすい場所にした。
   「そう言ったんなら、変に尻込みすんなよ」
   何故かその言葉が面白くて、私は真剣な顔をしながら、心の中で吹き出した。さっきまでの弱弱しかった井内君とは、別人のようだ。あ、最初はこんな感じの勢いがあったっけ。
   それに、別人のようというなら、私もだ。人の言葉に腹を立てたり、強い言葉で自分の意見を言ったりなんて、どのくらいぶりだろう。
  二人で画面を見つめ、服を選んだ。井内君の力に押されると、私もどんどん勢いづき、次々にカートに商品が溜まっていった。
   「結構選んだね」
   「こんなもんかな」
   「い、いくらくらいになったんだろう……」
   「今更、金の心配かよ。これから人生が変わんだぞ。バージョンアップできる値段と思えば安いだろ」
   「バージョンアップ……」
   その言葉も面白くて、私は思わず笑ってしまった。井内君は不審そうな目をしたが、つられたのか、少し笑った。
   でも、大事な事だ。
   私は、バージョンアップできるのだろうか。みじめな私から、変われるのだろうか。
   「あ、もうひとつ」
   びしぃっと井内君の指が私の方を指した。
   「な、なに?」
   「バージョンアップしたいんだったら、その野暮ったい髪切れ。なんだよそのぼさぼさな髪は」
   「こ、これは……今、雨で濡れた後だから」
   「いつもそんな感じだけど?ばっさり切ってすっきりしてしまえよ」
   「で、でも……」
   フッと感じた。この“でも”が今まで何度私を停滞させてきただろう。動くなら、今なのだ。
   私は、鋏を取り出す。
   「おい、何も今ここで切れって言ってるんじゃないけど。美容院に予約いれてさ」
   「良いの」私は首を振る。「今、ここで切りたいの」
   井内君は私を見つめ、ふぅんと呟いた。
   「……良いじゃん。だったらせめて、新聞紙か何か敷きな」
   私は頷き、適当な紙を広げる。
   机の上に鏡を置く。映るのは、ぼさぼさで汚らしく、みっともない私。
   さよなら、私。これまで良くがんばったね。おつかれさま。
   私は、しがらみを切り落とした。
   耳に響く鋏の音は、心地良かった。
   「おー……、結構いったな」
   「左も切るよ」
   もう一度鋏の音がして、頭がすっと軽くなった。こんなにも軽くなるなんて。
   私は、井内君に顔を向ける。
   「どうかな?」
   「んー、ちょっと右の方が長いかも」
   「ほんと?じゃあ、ちょっと切ろう」
   「あー、切りすぎ切りすぎ。今度は左が長い」
   「え、じゃあ」
   「ちょ、また切りすぎだって。アンタ少しは鏡見て切れよ!」
   「え」
   私は、鏡を見た。息をのんだ。
   これが、私か。
   まだ少し濡れてはいたが、それでも元より断然すっきりとしていた。
   私は、井内君を見る。私は、ぱちくりとした目をしていたのかもしれない。彼は、何だよその表情と言って吹き出した。
   私も面白くなって、そうして二人で声を上げて笑った。
   爽やかな空気が流れていた。
 



 
   外に出ると、あれだけ激しかった雨はすっかり上がっていた。
   駅まで送ると言う癒真を制止し、一人で靴を履く。
   「それじゃ、また」
   自分の言った言葉に失笑する。まただってさ。まるで、当然のように次があるという挨拶だ。
   後ろを確認してから階段を下り、アパートの横に周る。ついさっきまで居た癒真の部屋の部屋側。
   窓を見つめる。しかしそこには何も映し出されなかった。ぼくは、目を閉じる。すると、そこに癒真の部屋が映し出された。想像通りの狭いシャワールーム。脱衣所にひかれたやけに鮮やかなタオル。低い机。壁にかけられたカレンダー。積まれた本。ありありと、浮かんだ。今頃何をしているのだろうか。身体が冷えたままだっただろうから、きっとシャワーを浴びているだろう。
   ぼくは、現実の癒真の部屋を手に入れた。代わりに、想像の中で広がる癒真の部屋を失った。これは喜ぶべきか否か。……喜ぼう。現実の癒真の部屋の中での癒真の行動が、想像の中でリアルに広がるじゃないか。
   そして、だ。癒真は今日、確実に変革した。ぼくが助長した。さて、この事でかつての癒真は失われたのか。ぼくは、喜ぶべきか否か。
   ぼくは、空を見上げる。夏の気配が近づくと共に、日の入りが遅くなってきた。それでも、空は既に暗い。ぼくは、目を閉じる。
   ……ぼくは、喜ぼう。
   瞼の下には、癒真のスカートの下が浮かんだ。中学生のような下着。それに、クローゼットに入れられたダサい下着。癒真が脱衣所に行っている間に、クローゼットを開けたのだ。服は少なく、下着の棚はすぐに見つかった。ぼくはその光景を、目に焼き付けて脳に保存した。
   ぼくは、癒真に色んなアドバイスをした。服を提案した。靴を探した。髪を切らせた。化粧の事は全く分からなかったが、一緒にサイトを漁って良い方法を探した。化粧水や乳液についても調べた。近いうちにあのドラッグストアに走って、色んなものを買い求めるだろう。
   だが、下着については全く触れなかった。癒真の脳にその事が浮かばないように、他の事で夢中にさせた。
   これから、癒真は美しく変わるだろう。美少女までとは言わないが、自信とある程度の正しさを身につけた女は、見違えるようになるだろう。それでも。それでも、進化した癒真のスカートの中には、あの下着があるのだ。ぼくが変革させた女の魅力の内には、ぼくだけが知る秘密。秘めたる滑稽さ。大丈夫、誰にもバレやしないよ。アンタはこれから、自信を持って笑えば良い。
   大丈夫、ぼくの禁断の果実は健在だ。真っ赤な花の下に密やかに実をつけている。
   堪え切れずに、笑みが零れる。
   スマホを取り出して時間を確認すると、二十時を過ぎたところであった。 母親からメールが来ている。
   〈今日は何時に帰れるの?〉
   返信。
   〈二十一時までには家に着くよ。これまで、心配かけてごめん。これから頑張るよ〉