1-⑶さて、問題。ストーカーです!




   この一週間で分かった事。相手が大学生だという事。高槻市駅から十分程歩いたところにある私立大学に通っているという事。一限から授業のある日が、おそらく週に三回ある事。火曜、木曜、金曜だ。そして、この桂駅でこの車両に乗ってくる。
   停車。車内に人間が増える。だが、ぼくはその他大勢などに目もくれず、目的の女を探す……居た。しずしずと最後に乗ってきた。やはり、この駅でこの車両に乗ってきた。そしてやはり、金曜は一限から授業があるようだ。毎日こうして眺めていたぼくの推測は正しい。初めて朝に出会った木曜日、次に金曜日。休みが明けて月曜日に現れない時はどうしたのかと思い、少し考えて、大学生は高校生のように毎朝同じ時間に授業が始まらないのだという事に気がついた。そして高槻市駅のホームで待ち、一時間半後に女が現れたので、月曜日は二限始まりなのだと推測した。火曜日は一限。水曜も朝見かけず、高槻市で待っても現れず、昼を過ぎても現れなかったのでその日は諦めた。水曜日は三限以降……もしくは、授業が無いのかもしれない。こうして見ると、早起きをするのがたったの週三回で良いなんて、大学生とは羨ましいものだ。それに、一人暮らしなんだろう。ぼくなんか、毎朝煩い母親に起こされる。全く、高校生なんて、良い事が無い。
   それにしても、だ。今日の女はやけに短いスカートを穿いている。こんなスカートを穿くような女だったのか。少し意外だが、大学生と言うものは、まぁこんなものなのだろう。赤くひらひらとしたスカートに、白く伸びる太もも。長い足。……この女、この間痴漢に遭っていた癖に、良くこんなモノを穿けるな。本当は触られたいんじゃないだろうか。
   まぁ、痴漢に遭うなら勝手に遭えば良い。ぼくは別に、痴漢なんてしない。
   それにしても、今日の女はやけに顔が赤い。息が切れているようだし、もしかして走ってきたのだろうか。寝坊したのか。女が朝目覚めると共に時計を見て慌てる姿を想像する。その絵は滑稽で、口元が緩んだ。そういえば、この女はどんな布団で寝ているんだろう。どんな格好で寝ているんだろう。大人しそうに見えるけど、こんなスカートを穿くくらいだし、案外すごい格好で寝てるかもな。
   じゃあ食事はどんな風に、じゃあ部屋はどんな感じ……と想像を膨らませていると、女が降りる駅となってしまった。ああ、考えるのに夢中だと、時間が経つのが早い。そうだ、次は女の家の方に行くのも良いかもしれない。外観だけでも見られたら、さらに想像が膨らむだろう。
   ぼくは、電車を降りた。赤いスカートがはためいている。




   背中の汗が酷い。暑さ故ではない。冷たい、冷たい汗だ。
   私は教室の前に立ったまま、固まっていた。
   下を見る。真っ赤な色が目に入る。ああ、どうしてこんな色にしたんだろう。あまりに目立ってしまう。目立つ色が、さらに短さを強調してしまう。恐ろしいスカートを選んでしまった。
朝、家を出る時も何度も確認した。鏡の前で足をじっくりと眺め、その美しさに大丈夫だと自信を持ち、荷物を持って玄関に向かった後、もう一度鏡の前に立った。そして自分を奮い立たせ、靴を履いた後にもう一度鏡の前に戻った。玄関に戻った時に靴を脱ぎ忘れていた事に気がついた。でも、そんな事もどうでもよく思えて、もう一度鏡の前で確認した。大丈夫、大丈夫だよね。綺麗な足だもん。私だって、お姉さんになれるもん。
   ぎゅっ、と目を閉じ、開いて鏡を凝視。そうして家を出た時に、普段より出発が遅くなってしまっている事に気がついた。ぎりぎりでもいつもの電車に間に合ったのは、奇跡だと言えよう。
   そうだ、何回も確認したじゃないか。だから、大丈夫。さあ、教室に入ろう。心ではそう言うが、身体はぴくりとも動かない。きっと、本心じゃないのだろう。
   「癒真?」
   突然名前を呼ばれ、心臓が掴まれたかのような感覚がする。振り返った私は酷い顔をしていただろう。
   「弘菜……」
   「どうしたの?教室入んないの?」
   「あ……や、今、入るよ」
   「ふぅん?」
   弘菜は、今日もお姉さんだった。かっこいいTシャツに、綺麗なカバン、細身のズボン。ああ、弘菜でさえもこんなに短いスカートなんて穿いていないじゃないか。私は何をやっているんだろう。
   「あれ?今日の癒真……」
   ドキッとした。汗の気持ち悪い感覚が止まらない。弘菜が私を眺める。その視線は、確実にスカートを捉えている。
   ああ、どうしよう。ごめんなさい。私なんかが調子に乗りました。きっと弘菜は、私を哀れむだろう。ごめんなさい。一時の気の迷いだったんです。ごめんなさい。世界から消えてしまいたい。
   「……可愛いじゃん!」
   ごめんなさ……。
   「……え?」
   「そのスカート。癒真には珍しいね~。冒険したでしょ!良いじゃーん」
   「あ、ありがとう……」
   「さ、教室入ろ」
   弘菜の背中に翼が生えているように見えた。なんという事だ。図に乗った筈の、私は許された。それどころか「可愛い」とまで、言って貰えた。
   その言葉が頭を巡り、さっきまで冷え渡っていた身体が暖められていった。
   このスカートを買って、良かった。
私は天使の後をついて、教室に入った。今日は良い日になりそうだ。
 
   私は授業中も赤色を眺めていた。この短さでは座っていても、生身の足が見える。白い太ももが綺麗だ。赤と白のコントラストを眺め、私はこれまでに無い程満足感を得ていた。大学生活で、一番楽しい授業時間だ。先生の話は聞いていないのだが。
   気がつくと、弘菜がこちらを見ていた。
   「どうしたの?」
   「え?いや、何でもないよ。あ、そうそう。すごくびっくりした事なんだけどさ」
   「なぁに?」
   弘菜は教授をチラリと見て、声を潜める。
   「まーくんって、いたじゃん。ほら、正俊。あの子って実はウチの大学らしいよ」
   「え!そうなんだ」
   私は小声で驚いた。まーくん。あの、眼鏡の子。かっこ良かったな。
   「そうそう、あの後聞いてびっくりしちゃった~、もしかしたら学内でばったり会ったりするかもね」
   笑顔を作る弘菜。その笑顔は素敵だったが、私は少し胸が痛くなった。まーくんがいくらかっこ良くても、弘菜がいるもんな。弘菜みたいなお姉さんがいるから、私の出る幕はない。
   ため息混じりに下を向くと、赤と白のコントラストが目に入った。途端に私は大事な事を思い出し、心臓が動き始めた。
   そうだ、私もお姉さんの素質を手に入れたんじゃないか。なら何事もすぐに悲観せずとも良い。まーくんは、このスカートを見て、私を可愛いと言ってくれるだろうか。
   そこから、様々な想像を脳に巡らせた。本当に楽しい授業時間だった。
 
 
   赤いスカートを穿いて歩く校内は、いつもと違う世界のようだ。昨日までのじめじめとした天気が嘘のように爽やかに風が吹き、その度に短いスカートが揺られて、どきどきとした。こんなにも短く心許ない筈の丈が、私にとってはものすごく心強い。空が青い。スカートが赤い。私の足が白い。全てが全てを引き立てて、美しい世界だった。誰か、この世界を見てくれないだろうか。共に感じてくれないだろうか。そして、認めてくれないだろうか。歩いていると、男の子と目が合った。笑顔を送る。男の子は軽く会釈をした。彼は、認めてくれただろうか。私の色に胸を高鳴らせただろうか。笑顔を残しながら角を曲がると、三人組の女の子がいた。みんな私と同じように、丈の短いズボンやスカートを穿いている。私は彼女達の足を眺めた。もしかしたら、この中に居ても、負けないかもしれない。でも、良い勝負だ。通りすがりながら、共に並んでいる気持ちに浸った。
   とても、爽やかな日だ。爽やかで、美しい日の空気を私は胸いっぱいに吸い込んだ。
   私の後ろから、男の子達の声がした。彼らは私の色を見てくれるだろうか。
   と、彼らの会話の中に聞き覚えのある名前が聞こえた。正俊……。
   「まーくん!」
   振り返ると、そこには驚いた顔をした男の子四人。みんなかっこ良かったが、一人は特にかっこ良かった。眼鏡をかけた男の子。
   「正俊、お前の知り合い?」
   「えっと……?」
   「ほら、まーくん!先週一緒にご飯行ったよね。本当に同じ大学なんだね!」
   まーくんは私の顔を見つめる。どうせなら、足を見つめてくれたら良いのに。
   「あ……坂木さん?」
   「そうそう!」
   私は笑顔を送る。まーくんも少し微笑みながら、会釈をしてくれた。ああ、こうして近くで見てみると、本当にかっこ良い。
   「そのスカートすごく目立ってて良いね。じゃ、またいつか」
まーくんは手を上げ、友達と歩いて行った。私はその背中をじっと見つめていた。背中までもかっこ良いなんて、すごい人だ。
   素敵な背中が見えなくなった後で、私は回想に浸る。その場で踊り出したい気分だった。まーくんが私の色を見てくれた!認めてくれた!私は……お姉さんになったんだ!
   風が吹き、スカートが靡く。まるで私を祝福しているかのようだ。お姉さんとして新たな生を受けた私を祝ってくれている、初夏の優しい風だ。風に撫でられながら、しばらく感情を咀嚼する。
   涼しい風も、照りつける日差しも、遠くから聞こえる笑い声も、全てが愛おしい。全てを抱き締めてやりたいくらいだった。
   突然、脳裏に彼の言葉が蘇り、私は「あっ」と声を漏らす。彼は、「じゃ、またいつか」と私に言った。という事は、私にもう一度会う事を許可してくれたのだ。私には、まーくんに再び会う権利がある。彼の声を想う。彼の顔を想う。彼の背中を想う。素敵な、男の子だ。
   新しい命を得た私の心臓は、新しい感情を抱き、暖かく震えた。それは人が誰しも抱く感情だった。私にも抱く事が、認められたのだ。



   京都河原町行の電車が到着する。この電車は準急、この駅から各駅に停まります。長岡天神、桂、烏丸、京都河原町までお越しの方は、次の特急河原町行にご乗車ください。風。髪が揺れる。イヤホンを付けていても耳に届く轟音。人が何人も目の前を通り過ぎていく。
   スマホのホームボタンを押す。十六時四十分。アプリを適当に開く。敵を倒す。敵を倒す。くだらない。閉じる。
   京都河原町行の電車が到着する。この電車は特急。長岡天神、桂、烏丸に停車します。上牧、水無瀬、大山崎へお越しの方は、次の各駅停車河原町行にご乗車ください。風。髪が揺れて視界を遮る。イヤホンを付けていても耳に届く轟音が、思考の邪魔をする。人が何人も目の前を通り過ぎる、何人も。何人も、何人も、何人も何人も。
スマホのホームボタンを押す。十六時四十三分。メール画面を開く。新着メールなし。閉じる。
   なんとなく気配を感じて顔を上げると、見知らぬおっさんがこちらを見ていた。ぼくと目が合うと、視線を逸らす。そして、ちらりとこちらを窺う。
京都河原町行の電車が到着する。この電車は各駅停車。おっさんがちらりちらり。荷物を地面にどしんと置く。もしかして、このおっさんは座りたいのだろうか。ぼくがどかないかと待っているのだろうか。ちらりちらり。なんだよ。電車に乗ってから座れば良いじゃないか。そうやって直ぐに座りたがるから、中年太りになるんだよ。人が目の前を通り過ぎる。何人も何人も何人も。ちらりちらりちらり。ああ。ぼくだって何も好きで、こんなにも人通りの多い場所に座ってる訳じゃない。いくら人の多さに辟易したとしても、階段付近のこの場所にいなければならない。
   階段を見やる。若い女が二人、上がってきた。スマホのホームボタンを押す。十六時四十七分。まだ来ない。
   そうだ、勉強をしよう。受験生なんだし、空き時間こそ有効活用、だよな。カバンを探り、ノートを選ぶ。数学……いや……英語、は三時間程前に単語帳で勉強したし、日本史にしよう。ぱらり、と開く。最新のページを眺めたが、何やら記憶が遠い。……ああそうか、最近授業にちゃんと出ていないんだった。何回休んだんだっけな。追いつけるかな。
   至極うんざりしたので、ノートを仕舞う。顔を上げると、おっさんと目が合った。何見てんだよ。足を地面に強めに打ち付けて、睨む。おっさんは視線を逸らした。
   京都河原町行の電車が到着する。この電車は準急、この駅から各駅に停まります。これで何回目だろう。おっさんは準急電車に乗り込んだ。スマホのホームボタンを押す。十六時五十二分。何時間待っているんだろう。
   朝の八時四十分に降車し、後をつけて大学に入るところを見送ってからここに戻り、それからずっと待っている。あの女が来るのを待っている。昼ごはんを買いに席を立った時間を除いても、八時間近く待っている。今までは朝の電車から大学までを眺めていたから、授業が何限目から始まるのかは推測できていたが、帰りを待つのは初めてなので、現れる時間が未知なのだ。気が抜けない。一体何限で授業が終わるのだろう。もうすぐ、十七時になる。
   そもそも、あの女が友人と食事の約束をしていたら、どうしよう。十七時どころか、二十時、二十一時、二十二時、さらに遅くなるかもしれない。そうしたら、ぼくはどうするんだ。それまでここで待つのか? 昼と同じように、夜もここでご飯を食べるのか? 風のようなスピードで駅の売店まで走って晩ごはんを手に入れ、再び椅子に座ってそいつを食べながら、周囲を警戒するのか?
   ああ、なんという時間の浪費。気の遠くなるような想像。先の見えない苦痛。途端に、馬鹿らしく思えてきた。何をやっているんだろう。
   と共に、とんでもない寒気を感じ、身体が震えた。ぼくがこうしている間に、クラスの連中はがんばって、がんばって、がんばっている、ゾンビの目をして脳の一部を腐らせながら、がんばっている。ぼくは、置いて行かれていく。追いつけるのか。取り戻せるのか。ぼくは。今もルートに乗れているのか。レールから外れてはいないか。Eの文字が、頭で踊る。やめろ、離れろ、どこかへ行け。
   電車が到着する。轟音轟音。それでも、ぐるぐるとした思考が途切れない。なんでだよ。ウォークマンのボタンを連打し、音楽のボリュームを上げる。がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。しかし、まだ思考はぐるぐる。文字が踊り、廻り、嗤う。やめろ。やめろ。やめてくれ!
   ぐるぐるとした脳内に、赤が飛び込む。
   顔を上げると、鮮烈な赤。それから、白。
   あああ、あの女だ。思考の一部が追いつくと共に、スマホのホームボタンを押す。十七時二分。スクリーンショットを撮る。
   女は歩みを止めずに、そのまま停車していた電車に乗り込んだ。慌てて後に倣う。ぼくが乗り込んだ直後に、ドアが閉まった。
   少しずつ、少しずつ混乱が治まってきた。ある程度の平静さを取り戻したのは、次の駅に停車した頃だった。
深呼吸をし、改めて女を見つめる。朝と同じく、目立つスカートを穿いている。もし一週間前と同じ時間に電車に乗っていたら、痴漢に遭いそうな露出っぷりだ。今現在は時間が早い上に各駅停車なので、あまり人は乗っておらず、いくらスリルを求める人間でもこんなに見晴らしの良い車両で痴漢行為は働かないだろう。
   そんな車両の中で、女は立っていた。席はいくらでも空いているのに。少し疑問に思ったが、そこまで気にする程の事でもないだろう。立っていると、白く伸びる足が良く目立った。
しかしこの女、なんというかバランスが悪い。昨日まではそうも思わなかったのだが。違和感の見当はすぐにつく。スカートと足だ。上に着ている服はダサいし、髪も相変わらずぼさぼさ。顔もパッとしない。なのに、まるで洗練されている人間かのようにスカートが鮮やかで短く、足を大胆に露出させているので、全体の印象としては、ちぐはぐだ。靴下と靴が女子中学生のようなセンスなのも、滑稽さを加速させている。朝見た時は「大学生だからこんな恰好も」と思ったが、冷静に眺めてみると、こんなスカートは、この女のキャラに合っていない。一体何故、この女がこんなスカートを履くに至ったのだろう。やはり、男関連だろうか。
   視線を再び、顔に移す。ぎょっとした。女は、やけに自信に満ちた表情をしていた。こんな表情は、この一週間で初めてだった。ぼくが直接見てきたのは一週間だが、この一ヶ月……いや、この一年内でも、この女がこんなに堂々としているのは初めての事じゃないかと思えた。そう感じられる程の、急変だった。
   スカート、それにこの表情。今日の女に何があったのだろう。ああ、その光景を見ていたかった。一週間ずっと見ていたのに、こんな大きな事を見逃してしまうだなんて。やはり、朝だけでは駄目だったんだ。やるなら、もっとがんばらないと。とりあえず、金曜日は十七時頃に授業が終わるのだと分かった。十七時……というと、大学では何時間目が終わる頃なのだろうか。高校だと、六時間目もとっくに終わっている。金曜の六時間目は、数学だ。胸がドクン、と大きく鳴る。大丈夫、何でもない。
   電車が長岡天神に着いた。人が何人か乗ってくる。最後に乗ってきた若い男が、女のスカートをちらりと見た。おい何安直に反応してるんだよ。女もちらり、と男の方を見ていた。僅かに笑っているように見えた。
ポケットでスマホが震えたので、取り出す。ぼくに珍しく、メールが来たようだ。開くと、クラスの奴。
   〈課題出してないのお前だけだって、数学の山田が怒ってたぞ〉
   ……そうか。こんなメールを寄越してくれるなんて、人間の感情のないゾンビの癖に面白い話じゃないか。束の間の逡巡の後、メールをゴミ箱へ移動させた。
   女の方を見る。こうして見ると、綺麗な足だと思えてきた。クラスのゾンビ連中はみんなカリカリとしたガリ勉だから、スカートを短くするような女子もいない。こんな足を見る機会も中々ない。良いものじゃないか。
   無意識にスマホをいじっていた指が止まった。あるアプリを開く。音を出さずに写真が撮れるアプリだ。ときどき授業中に使っているが、バレた事はない。ハゲ教師山田の後頭部が、フォルダに溜まりつつある。
   これはもしかして、使えるんじゃないか。
   頭のどこかで、警鐘が鳴る。さすがに駄目だ。それは犯罪だぞ。
   心臓が、走りだし、どんどんペースを上げる。
   東向日駅に到着。ぼくは席を立つ。電車から出る。
   どくんどくん。
   違うドアから電車に乗り、席に座った。すぐ側に、女が立っている。
   こうして近づくと、本当に短いスカートだ。すぐに見えそうだ。
   電車が動きだす。
   電車と同じスピードかと思えるような鼓動の速さ。
   車両を見渡す。ぼく等の他には三人。遠くでスマホに夢中な女子高生。ぼくの斜向かいの端に座る男は、眠りこけている。もうひとり、おばさんはぼくと反対側の端に。
   おばさんからぼくは見えるが、ぼくの左手は見えない筈だ。
   スマホを握りしめる。
   女も見る。満足そうな顔で、窓の外を見つめている。
   スカートは、近い。
   唾を飲み込む。
   警告は、頭の奥の方に追いやられた。
   脳内に響くのは、自身の心臓の音ばかり。
   もう一度おばさんと女を確認し、素早く左手を伸ばす。
   親指が画面に、触れる。
 
   即座に引っ込める。何を。ぼくは、なにを。やってるんだ。頭がくらり、としてスマホがぼくの手からこぼれる。ああ、手汗が酷い。滑ったのか。地面に、がしゃり。
   ぐるり、と女が振り返り、そして下を見た。屈む。スマホを拾う。やばい。心臓が急停車。眼球が零れ落ちそう。いっそ落ちてしまえ。
   「…ァ、落ちましたよ」
   女は笑顔を作って、ぼくにスマホを手渡した。ぼくはほとんど意識を持たぬままに受け取った。急に返ってきた意識が、何とかぼくに「ありがとうございます」を言わせた。
   女は再び笑顔を作り直し、窓の方を向き直った。
   茫然。
   自失。
 
   電車が、桂駅に着いたらしい。アナウンスが届き、ようやく脳が動き始めた。
   数分しか経っていないのか。随分と長い間、自分が自分でなかった気がする。
   女の後を追い、降車する。女のスニーカーを眺めながら、歩く。目線を少し上に。歩く。目線を少し上に。スカート。身体が熱くなり、目を逸らした。
   女が定期を通し、改札を抜ける。ぼくも定期を通し、改札を抜ける。
エスカレーターを下る。東口の方に向かうのか。バスに乗るのだろうか。家はここから近いんだろうか。自転車だったら厄介だな。
   地上に降りた女は、自転車置き場もバス乗り場も通り過ぎて、歩き続けた。ひとまず、安心だ。と言う事は、家は割と近いんだな。勝手に一人暮らしだと思っていたが、果たしてどうなのだろう。女の歩くスピードは、あまり速くない。ぼくはゆっくり、追う。
桂駅で乗り換えたり、駅のそばで買い物をする事はあったが、こうやってしっかりと降りて道を歩くのは初めてだった。慣れない道は緊張感がある。もっとも、この緊張感は道への不慣れさのみにはないだろうが。先導者(もちろん相手は無意識だが)と一定距離を開けて、住宅街を進む。まだ日は落ちない。
   十五分程歩いたところで、女がドラッグストアに入っていった。何を買うのだろう。距離を保ったまま、入店する。眩しく広い店内。ドラッグストアとは不思議なもので、商品は薬に限らない。文房具や日用品が並ぶ。女は……と。化粧品コーナーへ向かっていった。そう、化粧品も充実している。不思議なことに。
   それにしても、この女が化粧品コーナーに用事があるなんてな。
   夢中になって商品を眺める女の後ろは通り過ぎながら、顔を確認する。やはり、化粧の気配もない。こんな女が、一体何を買おうと言うのだろう。
もう一度後ろを通り過ぎながら、女が手に取っている商品を見る。何やら紺色で、ペンのような形をしていた。男であるぼくには、それが何かは分からない。
   とうとう、女はしゃがみ込んで商品を眺め始めた。赤いスカートが華のように広がり、太ももの付け根の辺りまで露わになる。ぼくは、目を逸らした。
   地味で弱そうな女が、鮮烈な華のスカートに、化粧道具。もしかして、ぼくはこの人間の変革の時期に立ち会っているのではないだろうか。
   女を変えようとしたものは何か。女はどう変わるのか。女は変わることができるのか。
   これらの考えは、ぼくの脳に栄養を与えてくれるかもしれない。ぼくが、活動力を得る。目も、輝きそうだ。
   しかし、だ。こうして女が変わっていく事によって、かつての女の魅力は薄れてしまうのではないか。つまり、弱さ。嗜虐性を掻き立てる効果。禁断の果実。
   ぼくの頭の中では、天秤が揺れ動いていた。変革を取るか、よりよい禁断の果実を取るか。ゾンビたるぼくが喰らおうとした果実。どちらの方が、良い味をするのだろう。
   女が、立ち上がった。どうやら、購入する商品を決めたらしい。レジへと向かう。支払いを済ませ、店を出る。八メートル程間を開けて、後をつけた。
   前を歩く女は何やら、カバンをごそごそとしている。先ほど買った商品を仕舞いたいのだろうか。なら、店の中でやれば良いのに。こんな道でそんな事をするから、野暮ったいんだよ。こんな女がいくら変わろうとしても、洗練された存在になる事はないかもしれない。ならば、さっきのように悩まなくとも良いか。この女は、いつまでもこの女のままだ。
   と、何かが目に入った。女のカバンから出てきたソレは、真っ直ぐに地面へと落ち、そのまま動かない。女を見るが、ソレの動きには気が付いていないようで、まだカバンをごそごそしながら歩いている。歩いている。三十センチ。一メートル。二メートル。三メートル。六メートル。八メートル。
ソレは、定期入れだった。
   顔を上げて、八メートル先を見やる。女はカバンのごそごそも終えたようで、前を向いて歩いている。定期入れを落としてしまった事には、本当に気が付いていないようだ。三秒悩み、拾い上げる。
   女を見失わないように歩きながら、定期入れを眺める。桂―高槻市間の三か月分の学生定期。これは、困るんじゃないかな。明日は土曜日だから良いとして、月曜日に電車に乗れなくなってしまう。まあ、もちろん切符を買えばいいのだが、それでも驚きはするだろう。駅で慌てふためく女を想像する。滑稽で、笑えた。
   それにしても、随分と分厚い定期入れだ。通学定期券の他にも何か入っているのかもしれない。前をちらりと確認してから、中身を出す。定期券以外に五、六枚のカードが出てきた。手の平に当たった一番厚いカードを眺める。
   〈学校法人 高槻大学〉
   気が付く。途端、本日何度か目の心臓への衝撃を感じる。これは、学生証だ。
  視線を感じたような気がして、前を確認するが、女は変わらず前を向いて歩いている。それ以外に人はない。後ろを見る。横を見る。気のせい、か。目を閉じる。大丈夫、何も悪い事はしていない。ただ、人が落としたモノを拾ってやっただけじゃないか。そして、身元を確認する為に、中身を少し見るだけ。そう、むしろ良い事をしているくらいだ。だから、大丈夫。
   ぼくは、学生証を裏返した。女と目が合った。顔写真だ。高校の時の写真なのだろう。制服を着ていて、やはり野暮ったい。女子高生というブランドを掲げるものが全て魅力的な訳ではない、という事が証明される写真だ。その横に学部名、学科名、学籍番号が書かれている。そして、その下に名前が書いてあった。
   〈坂木 癒真〉
   サカキユマ。もちろん聞き覚えのないその名前は、この女の名前なのだ。坂木癒真。これまで追うのみだった存在が、近づいた気がした。まるで、あのさらけ出された太ももに口づけを済ませたかのような、距離感だった。相手の一部を手に入れた。もうぼくは、ただ追っているのみではない。四文字の漢字を、しばらくまじまじと眺めた。頭に文字が舞う。別のアルファベットが踊っていた時より、気分は良かった。
   顔を上げると、八メートル先に女がいなかった。慌てる。八メートル先どころか、視界にいない。自分が歩みを止めてしまっていた事に気が付き、走る。十字路に行き着いた。直感で左を選ぶと、五秒程走ったところで、正解だと分かった。女―坂木がアパートの階段を上がっているところだった。自動販売機で飲み物を選ぶフリをしながら、様子を窺う。坂木は赤いスカートを揺らして階段を上がりきり、女子中学生のようなスニーカーを動かして廊下を進み、そして、一番階段から遠い部屋の前で止まった。カバンをごそごそ、鍵を取り出し、ドアを開けて中に入っていった。
   急いで、階段と反対側に回り込む。窓があった。坂木の部屋だ。坂木の部屋の窓だ。
   ぼくはとうとう、あの女の名前も、住んでいる部屋も知ってしまった。この大きさのアパートでは、おそらく一人暮らしだろう。この中に、あの女の生活がある。窓を見ていると、色んなものが映し出された。おそらくこの窓は、ぼく以外にとっては何の変哲もない窓であろう。しかし、ぼくにはありありと見えた。短い廊下を通り抜けた女がカバンを置くのは低い机の上。その横には、少しのスペース。夜になれば、押し入れから出した布団を、そのスペースに敷くのだ。どこか古ぼけた壁。狭いシャワールーム。洗濯物はどこに干すのだろう。ベランダなどない。そうだ、部屋の中に干すんだ。広くない部屋の中に、野暮ったい服、赤いスカート、そして、下着……。女物の下着の干してある部屋は、ぼくにとっては本来現実感がないものなのだが、こうして今身近に感じられる、とても不思議な心地だった。ひとりの女の生活が、近くにある。天井に張り付いているようだ。押し入れの中にいるようだ。机の下に潜んでいるようだ。そうしてしばらく、窓に見入っていた。
 
   家に帰った時には、二十二時も過ぎていた。
   携帯を開くのも、時計を見るのも忘れていたので、時間を知ったのは、玄関で靴を脱いでいる時だった。同時に、母親からの大量のメールも知った。一気にリビングへ向かう気が失せた。風呂場を確認したが、誰も入っていないようだ。
   ぼくは死んだ目で、ゾンビのように階段を上がる。電気をつけないと、階段はとても暗い。
   「……ただいま」
   「ちょっと衛!やっと帰ってきたのね、今何時だと思ってるの!どこ行ってたの!」
   一気に言葉が浴びせられる。想像はできていたはずが、実際に体験すると、その不快感は想像以上だ。
心で悪態をつく。
   「勉強してたんだよ。だから遅くなった」
   「勉強?どこで?」
   「どこで、って何だよ。それ聞いてどうすんだよ」
   「あんたね。最近、勉強どうなの?」
   「うっせーな!さっきしてたって言ったろうが。いちいち聞いてくんなよ」
   「衛!!」
   突然、母親が声を張り上げる。うるさいな。なんだってんだ。
   「……なんだよ」
   「あのね、答えなさい。今日はどこで勉強してたの」
   「そんなの、学校に決まってんだろうが」
   「……実は、学校から連絡があったの」
   心臓が冷え渡る。
   「は」
   「あんたね、ここ最近学校まともに行ってないらしいじゃない。行ったとしても、大遅刻。ねぇ、毎日何してんの?受験生でしょ?」
   「な……なにがだよ。勉強してるつっただろうが」
   禁断の果実を追い始めてから、一週間。
   ……そうだ、でもぼくが悪いんじゃない。ぼくが悪いんじゃない。ぼくだって、助けてほしかったんだ。
   「良い大学にさえ入れば良いんだろ?だからこんな時間まで勉強してんだよ!何が悪いんだ!」
   「本当に勉強してるの?」
   「ああ!嘘つくかよ!」
   クシャクシャクシャ。
   ぼくの前に何かが広げられる。しわしわになっていた紙のようだ。
   「あ……」
   「これ。あんたの部屋のゴミ箱に入ってたんだけど。こんなにぐちゃぐちゃになって捨てられてたのよ」
   セロテープで繋ぎ止められたソレには、見覚えのある文字たちが踊っていた。アルファベットが、一際強くぼくに飛び込んでくる。嗤う嗤う。嘲笑う。お前は逃げられないんだ。ゾンビだろ?死にもできない、生きる事もできない、お前はゾンビだろ?
文字をひったくった。びり、と音がした。
   「おっまえ、ふざけんなよ。ゴミ箱漁るとかストーカーかよ気持ち悪い!今後勝手に部屋に入ってくんじゃねぇ!!」
   方向転換。階段を駆け上がる。母親が何か叫んでいるようだが、脳からシャットアウト。部屋に入って扉を勢いよく閉めて、ベッドに飛び込む。
身体を丸める。知るか。知るか。なんなんだよ。意味が分からない。ふざけんな。黙れ。何も聞きたくない。ベランダから飛び降りてやろうか。だめだ、ぼくはゾンビなんだっけ。知るか。ばか。動きたくない。
   電気が眩しい、消す。余計な事を考えたくない。ベッドに頭を打ち付ける、打ち付ける。蹲る。頭を掻き毟る。ちっとも痛くない。刺激に鈍くなってきてんじゃないか。そんな事ないのは分かっているけど。スマホを握り、振り上げて、頭に打ち付けた。くらり、とした。よし、このまま意識よ飛び立て。
   何分経ったのか。眩しさに目を開ける。何かが白く光っている。手に取ると、スマホだった。メールが来ている。
    〈晩ごはんあるよ。予備校とか考えてみない?一度下に降りてきて、話そう〉
   スマホを布団の下に押しやる。お腹は減っていなかった。そんなもの、忘れていた。
   予備校は……嫌だ。夕方から夜を拘束されてしまっては、せっかく家を突き止めたのに、行く事ができなくなる。
   予備校には、行きたくない。仕方ない、次から朝は学校に行こう。それでも週に三回は電車で会える。そして夕方は、坂木の家に行こう。
そうだ、坂木だ。ぼくは坂木という名前も、家の場所も手に入れたじゃないか。だから、ぼくは大丈夫。
   ……そうだ、それに。
   スマホを布団の下から取り出す。大事な事を思い出した。
   名前と家だけでは、ない。ぼくはもっとすごいものも手に入れていたじゃないか。電車の中で、手に入れた。画像フォルダを開く。最新の画像。
   「……な」
   驚愕。
   それから、笑い出したい気持ちになった。
   ぼくが盗撮に成功した赤いスカートの中身は、女子中学生のような白いパンツだった。
   それはそれはもうダサくて、やはりあの女が完全に洗練された存在となるのは無理だと確信した。
   ぐるぐるとした悩みがあったはずだが、そんなもの吹っ飛んだ。なぜか晴れ渡るような気持ちで、仰向けになった。
   あ、明日は土曜日か。癒真に会えない。ざんねん。



1-⑵ さて、問題。ストーカーです!




   大人になったら、お姉さんになれると思っていた。
   昔憧れた、綺麗で爽やかで恰好良い、お姉さんに。しかし、こんな考えはとんだ勘違い、思い上がりである。人生を舐めてると言われても仕方がないような図太いものだ。
   もちろん、大人になって、私の言う様なお姉さんになっている人達はたくさんいる。何歳から大人と言うのかは分からないが、大学の同級生達には私が憧れていたような、綺麗で爽やかで恰好良いお姉さんが山ほどいる。
   つまり、先ほどの考えを世間の人々が抱く事は間違ってはいないのだ。ただ、私なんぞが抱くものではない。私には語る事すら、一瞬たりとも考える事すら、烏滸がましい。こんな私が。お姉さんになれる等、と。
   鏡を見て、ため息。
   冴えない顔つき。バサバサの髪。垢抜けない雰囲気。でも、どうしたら良いのかは分からない。小学生の時にも、中学生の時にも、高校生の時にも、憧れていた大学生になったというのに、どうしたら良いのか分からないのだ。
   大学に入学した頃、お母さんが入学祝いにと化粧品一式を買ってくれた。私は喜び、これでいよいよと思った。だが、初めての化粧で失望した。何と、似合わない事か。まるで喜劇役者の様。それでも最初の数日はその顔で登校した。だが、すぐに耐えられなくなった。鏡と向き合えない。人と話していても、自分の顔を思い出して対応がまごつく。常に下を向く生活。
そうして授業の教室を覚えた頃、私は化粧をやめた。無駄な背伸びはやめよう。自らの立場を、弁えよう。そうすると、少し楽になった。下を向く生活は変わらなかったが。
   小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、夢を見ていたのだ。現実は見えていなかった。あまりに突飛な夢だった。私は気がついていなかったのだ。現実にするには、それ相応の土台を持ち、段階を踏まなければならないのだと。こんな土台で、何も努力せず、私は何を調子に乗っていたんだろう。
   そうして、大学生活も二年目となった。それなりに友人は出来た。相変わらず化粧はしていない。それでも私なりに、毎日が楽しかった。
 
   「癒真ー、おつかれ!」
   後ろから肩を叩かれる。クラスの友人、弘菜だった。
   「弘菜。今授業終わったの?」
   「うん、そう。お腹減ったね~」
   弘菜は、私の憧れていたお姉さんになれた女の子だ。茶色に染めて巻いた髪と化粧が似合う、女の子。何となく、今日は何時もより可愛く見える。ヒールも高い。
   「じゃあ、食べに行く?」
   私と弘菜は今日、晩ご飯を共にする約束をしていた。
   「そだねー、行こか。あ、そうそう。癒真にいっこ言っとかないといけないんだけど」
   「なぁに?」
   両手を合わせる弘菜。
   「実はね、今日二人じゃないんだ。ごめんね~」
   「えっ、誰が来るの?」
   「えっとね、私のバイト先の子二人と、あと男の子が何人か」
   「え、男の子も来るの……?」
   「まーまー、大丈夫大丈夫。良い人達ばかりみたいだし。さ、行こ」
  「あ……」
   軽く声が漏れたのみで、それ以上は何も言えなかった。弘菜が言うのなら、大丈夫なのだろう。わざわざ誘ってもらったんだし、文句は言えない。
   学校を出て、弘菜と共にお店へと向かう。ドラマの話をしてくる弘菜。ヒールの音がカツン、カツンと響く。しかし、私はそのドラマを見ていないので、いまいち分からなかった。
   十分程歩いたところで、ヒールの音が止まった。
   「おっす、弘菜~」
   「もー、遅いぞー」
   弘菜に声をかけたのは、これまたお姉さんになる事に成功した二人組。綺麗な脚を存分に露出し、派手なメイクをしている。
   「ごめんごめん、レミ、恵里。ちょっと授業終わるの遅くてさ」
   「も~、あ!その子が言ってた子?」
   「あ、うん。癒真って言うんだ」
   「あ、あの、あ……こんばん……」
   「なるほど、じゃ、癒真っちっしょ」
   「癒真っちだね、うんうん。癒真っちどもー。そうそう、男の子達もそろそろ来るらしいよ」
   「まじ?今回なかなか良いんでしょ」
   「そ。レミに感謝してよね~」
   「ははー、レミ様。いつでもシフト代わります!言うけど私、今日は本気で狙っていくからね」
   「いっつもそう言ってんじゃん」
   「あ……」
   話が盛り上がり始め、私の声など響かない。挨拶も上手く出来ないままに、私の話なんて一瞬で流れてしまった。なんというか、こういう派手な人達に囲まれていると、すごく緊張してしまう。大丈夫かな。でも、弘菜がいて良かったな。
   と、お姉さん達が一層盛り上がり始めた。何処かを見ているよう。視線の先を追うと、四人組の男の人が居た。みんな、恰好良い髪型と服をしていて、洗練されている。
   「裕太!こっちこっち~」
   「お、レミ。お~、可愛い子揃えてきたね」
   「まーね、そっちもやるじゃん。とりあえず挨拶は中入ってからね。じゃ、入って入ってー」
   男の人達が軽く会釈しながら、店に入っていく。ちらり、ちらりと私たちに視線を送る。女の子達は、こそこそと小声で話していた。そこに陰口のような雰囲気はなく、何やら嬉しそう。
   「よし、じゃ。ウチらも入ろか。希望の席とかある?」
   「はいはい!私メガネの子の前!」
   弘菜が勢い良く手を挙げる。弘菜は、こんなテンションの子だっただろうか。
   「えー、私もあの子良いなーって思ってたのに。まぁ、良いや。後で交代するし、私は最初は帽子の子で」
   「なんだかんだお前ら欲張りなんだから。まぁ、みんなイケメンだから選び放題よ。ささ、じゃ、入った入った」
   きゃっきゃと騒ぎながら店に入るお姉さん達。
   あれ、私も、入って良いんだよね……?
   三秒程固まったのち、急いで後を追う。
   そこからは、まるで異空間だった。突然、言葉が通じない異文化圏に放り込まれたかのような。いや、言葉は通じる筈なのだが、何も言えない。何を言えば良いのか分からない。最初の自己紹介以来、ほとんど何も言葉を発していない。どうしよう。頭がこんがらがる。どうして上手くいかないのか。何を言えば良いのか。
   やがて、分かった。私は何も言わなくて、良いのだろう。だって誰も、私を見ていない。最初こそ男の子達は、女の子全員に視線を送ったが、すぐに私の方は見なくなった。女の子達も、弘菜でさえも、私の方を見ていなかった。どうしてだろう。いや、これもすぐに分かった。分かり切っている事だ。私が、お姉さんになれなかったからだ。女としての魅力が、皆無だからだ。
   周囲のお酒のペースが上がって行き、盛り上がって行く中、私は何処を見ていたら良いのかも分からず、烏龍茶のグラスを抱えていた。誰も見てくれない私は、ひょっとしてここにはいないんじゃないか。頭がぼんやりとする。意識は天井の辺りにあるよう。みんなは楽しそうだったが、まるでテレビごしにこの場を見ているかのようだった。私を他所に盛り上がるドラマ。チャンネルを変える事も、テレビから離れる事も出来ない。
   そのまま永遠とも思えた時間が過ぎ、お開きとなった。三時間ぶりにレミさんが私の方を見てくれ、私は財布から三千円を取り出す。レミさんは酒で赤く染まった顔で、私の手からお金を受け取る。おかしくなかっただろうか。今ので大丈夫だったよね。
   そして店の外に出た後、恵里さんが二次会の提案をする。しかし、弘菜が不満の声を漏らした。
   「おいおい、お持ち帰りタイムはまだ早いんじゃないの?」
   レミさんがそういうと、みんなが笑った。弘菜は唇を尖らせながら、メガネをかけた男の人の腕に抱きつき、言う。
   「えー、じゃあ、まーくん予約するから。それなら、カラオケ行くもん」
囃し立てる声。じゃあ何処の店にする?との相談が始まる。私はというと、これまで知らなかった弘菜の一面にただただ驚くばかりで、そしてカラオケも苦手なので、帰る事にした。誰かにその事を伝えようとしたが、みんな大声で盛り上がっていて、私に気がつかない。じゃあ仕方ない。帰ろう。私は誰からも挨拶されず、駅へと向かった。
 
   夜道。月明かり。笑い声が遠くなり、別の団体の笑い声が近づき、また遠ざかる。
   でも、そうだな。こうやって飲み会に行くのは久しぶりだった。お酒は苦手だから、一杯も飲めなかったけど。あと、男の人とご飯食べるなんて、滅多にない機会だ。思えば、給食以来かもしれない。良い経験じゃないか、大学生らしくて。あのメガネの人、確かにかっこ良かったな。
   「あは……」
   目が熱く、涙が地面に落ちていった。ぽた、ぽたと大粒。悔しい。とても、悔しかった。男の人達に興味を持って貰えない事。弘菜にさえ、見てもらえない事。上手く話せない自分。嫌な事を嫌と言えない自分。お姉さんになれなかった自分。
   なんて、みじめなんだろう。
   立ち止まる。夜道で歩みを止めると、不思議な感覚がある。日常から迷子になってしまったかのような。まるで、ここに置き去りにされてしまったかのような。世界に置き去りにされた私は何処に向かえば良いんだろう?
ぼんやりとした視界の夜景は、キラキラと輝いて美しい。信号機。車。マンション。色んな人達の生活がある。
 
   私は、歩き始めた。立ち止まっていたって、余計みじめだ。誰が助けてくれる訳でもない。さっさと駅に向かって、電車に乗って、家に帰ろう。涙をこぼすのなら、自分の部屋で誰にも迷惑をかけずにこぼそう。
 
   そうして身体を引きずって五分程、気がついたら駅についていた。滲む視界でも、きちんと着くモノだな。毎日の習慣というのは、素晴らしく身体に染み付いているものだ。
   特急電車に乗車。この時間の電車は、かなり混雑している。周りの人達に迷惑をかけないようにしたい。私はカバンを下ろし、足の間に挟んだ。電車が大きく揺れ、誰かが私にぶつかった。私はふらつかないように、必死で踏ん張った。もし弘菜くらいの高さのヒールを履いていたら、この揺れには耐えられないだろうな。弘菜。胸がズキンと痛んだ。ああ、そうか。弘菜なら、あの男の人にしがみつけば良いんだろう。
   しかし私は、このような電車の混雑が嫌いじゃない。人と触れ合っている感じがあるからだ。この空間では、私も無視されない。決してプラスの感情とはいえないが、それでも私にとっては嬉しいものなのだ。
   なんて、こんな事考えちゃうのもみじめだよなぁ。
   電車が再び揺れる。先ほどよりは小さな揺れ。踏ん張らなくとも、耐えられる。誰かが、私の身体に触れた。今の揺れでふらついてしまったのだろうか。もしかして、弘菜のようなヒールを履いているとか。
   またもや小さな揺れ。もはやこの程度の揺れは電車が走行する上で当たり前と言うべきレベルで、普段なら気に留める事も無い。だが、またもや私の後ろの誰かは私の身体に触れた。それも、尻に。不思議なものだ。
   小さく振り返る。と言っても、顔を見るのは怖いので、足元を見るのみ。男物の革靴と、灰色のスーツが見えた。男?
   またもや、後ろの気配が私の尻に触れる。
   私は気づいた。これは、痴漢だ。
   驚きはしたが、同時に私の頭はどこか冷静だった。
   揺れに乗じて誤魔化しているつもりに見えるが、それにしては違和感の多い動きだった。またもや、触れる。少しずつ、触れている時間が長くなる。
まさか私に痴漢をする人がいるだなんて。私に痴漢をする……と言う事は、私に女としての性的魅力を感じたという事だよな。
   その事に気がついた途端に、胸が高鳴った。痴漢されていると気がついた時より、遥かに動揺した。耳が熱い。またもや、触れる。三秒程その場で静止。大きく、確かに男の人の手だ。
その手が私の尻を撫でる。長い指をゆっくり這わせる。男の行動は大胆になりつつあった。やがて、私の尻を揉み始めた。
   心臓がどくどくと鳴る。と共に、下腹部にもう一つ心臓があるかのように熱い。痛い程だ。二つの心臓は、手が私の尻で動く度に大きく反応した。その二つの反応は脳にも甘い分泌物を送ってくる。
   おかしい、困っている筈なのに、それ以上にとろりとして気持ち良い。脳が気持ち良い。
   ああ、今私は男性に女として見られている。女の魅力を認められ、性的欲求をぶつけられている。私は今、女なんだよ。誰か!私が!
   高校生と目が合う。ほら、見て。私は今、女なの。どう?貴方から見ても女かな?高校生は顔を赤く染め目を激しく泳がせた。どうなの?女になってるでしょ。私もお姉さんなんだと、認めてよ。もう一度目が合い、やがて離された。
 
 
   鍵穴に鍵を差し、ガチャリと回す。
   「ただいま」なんて言う相手もいない一人暮らしだが、何故か呟かずにはいられない。これも幼い頃からの無意識の習慣という奴なのか。身体に染み付いたものはなかなか取れない。
   短い廊下を進んで部屋に入り、カバンを置いて全身鏡の前に立つ。映るのはいつもの野暮ったい自分。思わず、目を逸らしてしまう。
   あの日以来、痴漢に遭わない。同じ時間の同じ電車の同じ車両の同じ場所を狙っているのだが、人混みの中で電車に揺られるのみだ。
   そうして、一週間。
   やはり、あの日に私が「女」として見られたのは、たまたまだったんだろうか。
   ……いや、でも諦めきれない。私だって、お姉さんになりたいんだ。
   もう一度、鏡を見つめる。ばさばさの黒髪、パッとしない顔立ち、たるんだフェイスライン、垢抜けない服装、負のオーラを持った雰囲気。目を逸らしたくて仕方なかったが、じっと観察した。そして、必死に考える。何を、どうすれば良いのだろう。綺麗なお姉さんになるには。
   綺麗なお姉さんを想像する。弘菜……の事を考えると何故か胸が痛くなったので、中止。恵里さんとレミさんを思い浮かべる。会ってから一週間経っていたが、その姿ははっきりと覚えていた。二人とも綺麗な髪に、綺麗な顔に、綺麗な身体をしていた。スカートが短く、綺麗な足を存分に露出させていた。男の人達は、あの足に釘付けになっていたよう思える。
   足……。私は、重たいスカートをつまみ、たくし上げた。ふくらはぎを、膝を露出させる。ほぉっ……と息が漏れた。悲しい溜息では無い。自分の足の可能性を感じた。私の中に芽生えた珍しい感情は、素晴らしい栄養を得たかのようにぐんぐんと大きくなった。二十分程鏡を凝視しながら考え、そして外出の決断を下した。八時。まだ、大丈夫。
   閉店間際だった近所の服屋で、スカートを手に取る。彼女達のようなスカート。自分なんかが持っている事が恥ずかしく、サイズのみを確認して、色も柄もロクに見ないままにレジへと持って行った。短いやり取りの中で店員の顔を一度も見られず、支払いを済ませたら逃げるように店から出た。しかし、胸には高揚感が確かにあった。
   家に帰り、靴を脱ぐと共に重いスカートも脱ぎ捨てる。歩きながら袋を破って戦利品を手に取る。タグなど、今はついていても構わない。そんな事に構っている場合ではない。足を通し、腰まで上げる。本当に履いているのか疑う程、スッキリとした開放感。
   そして、鏡の前に立つ。目が釘付けになった。まるでたった今命を得たかのように、心臓がどくんどくんと脈打つ。手が震える。背中に汗の流れる感触がする。いつからか口が大きく開いていた。どれだけ身体が動いても、視線は離れなかった。
   なんと、美しい足なのだろう。
   こんなに綺麗な足なら、恵里さんにもレミさんに、弘菜にも引けを取らないように思える。これまで、知らなかった。自分がこんなに美しい足を持っていただなんて。なんだ。私だって、お姉さんの資格を持っていたんだ。そう思うと、涙が溢れてきた。私は泣きながら、鏡を凝視し続けた。霞む視界でも、足はしっかりと捉えていた。

1-⑴ さて、問題。ストーカーです!





第一章「出題」

   大人になったら、死のうと思っている。

   澱む空に、絡まるような熱気と湿り気、降り止まぬ雨。そんな空気は、浴びた人間まで澱ませていくようで、ぼくはこの季節が好きではない。意識が重くなる。死ぬにしても、六月は避けたい。こんな時期に、わざわざ死にたくない。かと言って、湿気で気が滅入るので生きていたくもない。六月のぼくはゾンビのように日々を過ごしていた。

   今日、六月十三日もゾンビのように朝の支度をし、ゾンビのように電車に乗り、ゾンビのように授業を受けて、ゾンビのように帰宅し、そして先ほど、死体のようにベッドに倒れ込んだところだ。このようにゾンビの如きぼくだが、クラスから浮く訳でも迫害される訳でもない。だって、クラスメイトもみんなゾンビなのだから。特に今日の放課後は、皆の瞳の澱みに拍車がかかっただろう。ぼくも。うんまぁ。別にそんな事良いんだけど。あんな紙切れと文字なんてどうでも良いんだけど。

   ぼくは起き上がった。死体ではいられない。別に、紙切れを思い出してやる気を出した訳ではない。耐えられなかったのだ。こんな季節にベッドに寝転んでも快感とは遠く、むしろ不快感に纏わり付かれて苛ついてくる。

再びゾンビとなったぼくは自室を出て、階下に降りる。冷蔵庫に辿り着き、お茶を取り出し、コップに注ぎ、口に含む。だが、快感はまだ遠い。何だこれは。冷蔵庫ってのは物を冷やす為にあるんじゃないのかよ。冷たさが全然ぼくの喉を刺さない。ふざけるなよ。製氷室を開け、氷を二、三個。少し混ぜて再び呷る。まだまだ。氷を入れる。こんなものでは、駄目だ。氷を入れる。もっと、澱んだ僕の奥深くに届くような、ぼくを貫いて目を覚まさせるような刺激じゃないと駄目だ。氷を入れる。ザクザクザクザク。最低限の隙間を残してコップを満たし、お茶を注ぐ。カラン、と音を立てて新たなスペースが出来たので、もう一つ氷を積む。そうして出来上がった作品を掴むと、冷たさがぼくの手を襲った。しかしこんな刺激では、ぼくの目は覚めない。そのまま、零さないよう慎重に階段を上がる。だが慎重さとは、必ずしも実を結ぶ物ではない。澱んだぼくの手が歪み、その僅かな揺れを感知した作品は少量の中身をぼくの足へとぶちまける。その刺激に驚き、さらに揺れ、再び衝撃を浴びる。そこからは慎重さなど捨て去って階段を駆け上がり、机に刺激の原因を置いて壁を蹴りつける。

   ベッドに倒れこむ。腹にぶち当たった空調のリモコンを、床へと投げ捨てる。だめだ、落ち着こう。落ち着く事が大事だ。そうだ、ぼくには自制心がある。感情のままに暴れるだけの子どもではない。落ち着け。落ち着こう。ひと呼吸。ふた呼吸。み呼吸。

よし、大丈夫。大丈夫だ。もう落ち着いた。それにしても、あれだな。こうも苛つくのはきっと、梅雨独特の湿気と暑さの所為だな。ならば、対処は簡単。空気を涼しく爽やかにすれば良いのだ。クーラーで世界を冷やそう。

   しかし、リモコンが見当たらない。いつもベッドの上に置いているのだが。

    ……ああ、さっき投げたんだっけ。床に視線を這わせる。ゴミ箱の近くに発見。だが、ボタンを押しても反応が無い。壊れているのか。強めに。連打。裏返し、気がつく。電池が入っていなかった。恐らくさっきの衝撃で何処かへ転がったのだろう。再び視線を這わせ、ベッドの下と椅子の下とで見つけ出す。手を伸ばして回収し、リモコンに装着。電源ボタンを押すと、今度はきちんと反応した。ストレスを軽減させる為にクーラーをつけようと思ったのに、その作業で余計に苛々してしまった。本当に腹立たしい季節だ。設定温度を20℃に。

    浴びせられる人工的な涼しさは、なかなか心地よい。これなら、ベッドに寝転がるのも快感となる。最初からこうすれば良かった。便利な道具には、頼れば良いんだ。道具とはその為に存在している。

    しかし、ゾンビのように生きていると自身を表現したが、ゾンビの癖に暑さも痛さも冷たさも感じ、そしてそれに感情を左右されるなんて何とも滑稽なものだ。所詮ぼくは、人間なのだろう。ゾンビの目をして脳の一部が腐った、人間だ。

    いつからだろう、クラスメイト達が腐っていったのは。いつだっただろう、大人になったら死のうと決意したのは。小学校に入ったばかりの頃は学校が楽しかった。記憶は朧げだが、クラスの仲間たちと過ごす日々は輝いていた筈だ。そんな輝く小学生の頃、近所に住むお兄さんに聞いた。お兄さんはどこで働いてるの?僕はまだ学生だよ、大学生なんだ。だいかくせい?そう。学校はね、いくつか種類があるんだ。きみは今小学生でしょ。うん。その次は中学生。そのまた次は高校生。そして、次に大学生になるんだ。へー、先は長いんだね。まぁ、大学生までならなくても良いんだけどね。でもぼく、お兄さんみたいに大学生になりたい!そうかい?じゃあ、がんばって勉強するんだよ。うん!……そんな事があった。朧げな記憶の中で、何故かこの会話は強く残っている。

    小学生、中学生、高校生、大学生。このルートを聞いたあの時、率直に「長いな」と思った。高校生ぐらいは要らないんじゃないだろうか。名前も大中小の内、一つだけ浮いてるし。そんな事を考えた小学生のぼくは、中学生のぼくとなった。学校の勉強が難しくなり、ぼくは少し授業が面倒になってきた。その頃に親に言われた。がんばって勉強するのよ。どうして?そうね。そうしたら、良い大学に入れるわ。……そうだった。ぼくの乗っているルートのゴールは大学だった。その為に、がんばって勉強をする必要があるのだ。ならば、がんばろう。中学生のぼくはがんばって、がんばり、数学と英語と国語と社会と理科をがんばって、高校生のぼくになった。

    ぼくが進んだ高校は所謂、進学校と云う奴だった。国公立当たり前、東大京大多数輩出。ぼくが狙うのは、勿論東大だ。がんばって良い大学に進むと決めたのだ。そしてがんばってきたのだから、それ相応のゴールを切らなければ。高校のクラスメイト達は、中学と比べてがんばって勉強してきた人が多く、ぼくは居心地が良かった。今思えば、中学の連中は何とまあ、馬鹿の集まりだった事か。がんばったぼくの居場所は、ここだ。

    しかし、がんばって居場所を手に入れたとは言え、本当の目的はここではない。そう、ゴールはあくまでも大学なのだ。まだまだ、がんばりたりない。がんばろう。

    ぼくはがんばろう、周りのみんなもがんばっている。そうだ、そんな時に気がついたんだった。周りのみんなが腐っている。脳の一部が腐ってきている。定期テストに一喜一憂し、模擬試験の結果に感情を揺さぶられ、文字・数字に踊らされて日々を送っている。確かにゴールを見ているのだが、良く考えるとゴールしか見ていない。それ以外の生活や感情等どうでも良いものかのように。人間として何かを失ったかのように。

    気がついてしまった時にぼくは戦慄した。が、すぐに思い直した。ゴールを見ていて何が悪い?そうだ、ぼくだってゴールを目指してこれまでやって来たんだ。小学生の時に知り、中学生でがんばり、高校生の今、もっとがんばり、そして……あれ?ゴールしたらその後は?ゴールしか見てこなかったぼくの人生は?

    そうだ、そんな時に思ったんだ。大人になったら死のうと。大丈夫、ゾンビから死体に変わるだけだ。

    部屋の扉が開く。母親の登場。反射的に顔を顰める。

    「ちょっとアンタ、何ごろごろしてんのよ。受験生でしょ。しかも何なのこの部屋!冷房きつすぎよ!電気代もバカにならないんだし、地球の為につけすぎちゃ駄目よ」

    母親は勝手にぼくの部屋のリモコンに手を取り、空調の電源を切る。なんて事をしてくれるんだ。地球の為?知るか。ぼくの世界が快適なら、ぼくはそれで良い。

    「しかもあんた、階段で水零したでしょ。危ないんだから、ちゃんと拭いといてよ」

    「水じゃない、お茶だ」

    「どっちでも良いわよ、そんなの」

    母親の滞在時間が延びる程に、母親の視線がぼくの部屋を泳ぐ事への不快感は増すばかり。頼むから、ぼくの空間を邪魔しないでくれ。

    「というか母さん、勝手に部屋に入って来るなって言ったじゃないか。受験生なんだし、勉強の気が散ったらどうするんだよ」

    「勉強してないじゃない」

    「うるさい、今からするところなんだよ。休憩だって必要じゃないか」

    「ちゃんと勉強しなさいよ。あ!そういえばあれ、そろそろ来たんじゃないの。ホラ、こないだ受けた模試の結果」

    背筋が、冷え渡る。足にお茶を零した時よりも、遥かに冷たい。

    「ま」声が震える。だが、動揺を悟られてはいけない「まだだよ!いちいち干渉してきてうっせーな!早く出 ていけよ!」

    「な、なんなのよ……。もう晩ご飯出来るからね」

    母親が出て行く。トントントン、と階段の音を確認してから、ドアを殴りつける。もう一度殴ろうかと思っていたが、思ったより音が大きく鳴ったので中止。少しの間耳を澄ませ、そしてベッドに戻る。

    落ち着かない。机の上に置いたままにしていたコップを手に取り、一気に喉へ流し込む。冷たさは冷蔵庫に入れていた時の比じゃなく、クーラーで冷えた身体に適した温度では無かった。しかし、さっきの背筋への衝撃には及ばない。あれの方が、あの紙に書かれた文字の方がもっと冷え渡っている。

   再びベッドに倒れ込む。起き上がる。空調のリモコンを掴み、投げ捨てる。頭をがじがじと掻く。床を強めに踏みつける。

   学校カバンを、手に取る。教科書の間に挟まった、紙を摘み、誰宛かも分からない悪態をついてから、引きずり出す。

   先月受けた模試の、結果が記されたプリントだ。社会は偏差値76となかなか。76という数字を十五秒程眺めてから、他の情報に目をやる。68…60…62…49…、49?49だと?49っていうと、50より下で、つまり平均以下なのだ。がんばってきたぼくが平均以下なんて、意味が分からない。プリントの右側に目をやる。第一志望、東京大学なんたら学部…E判定。第二志望、東京大学ほにゃほにゃ学部…E判定。第三希望の京都大学までもが、E判定。第四として書いた京都大学のあれあれ学部だけ、D判定だった。となると、京都大学のあれあれ学部が一番合格の可能性が高いのだろう。やったね。紙を真半分に破る。くしゃくしゃ、ぽい。

   何かがとても、馬鹿馬鹿しい。

試しに机へ向かい椅子に座ってみたが、十秒と経たない内に何かしらを蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。こんな所にいては、毒だ。

   そうだ、ぼくはゾンビじゃないか。そう、ゾンビだ。ゾンビならゾンビらしく、街を徘徊しよう。ポケットのスマホ以外に何も持たず、部屋を出て、階段を降り、キッチンとリビングを通り抜けて玄関へ。「ちょっと衛!どこ行くの、もうご飯出来たわよ!」という叫び声は、一応耳に入ったが脳までは届かない。だって一部が腐った脳だし、仕方ないでしょ。言っとくけど、アンタにも責任はあるよ。




   さて、外に出たのは良いがどうやって徘徊したものか。目的のない行動とは、案外に難しいものである。……とはいえ、目的のある行動が簡単だという理論が導き出される訳ではないのだが。そうだ。とりあえず、最寄り駅まで歩いてみよう。

   通い慣れた道を歩くのは、無意識に体を動かせて良いものだ。いや、もちろん意識はあるのだが、体の方にほとんど気を回さなくて良い。つまり、思考に適している。ゾンビのように徘徊するつもりの外出が、思考に適した行為となってしまうなんて何やら皮肉めいているが。まあ、どうせ腐らせた脳を持つぼくが巡らせる思考なんて、至極くだらないものであり、その脳内によって目が輝く事も身体がしゃきっとする事も無いので、結局ぼくはどう足掻いてもゾンビという枠から逃れられない。

   そうして身体を引きずって五分程、気がついたら駅についていた。道中の思考など覚えていない。ほら、その程度だ。

   エスカレーターに乗り、改札口へ。

   そういえばここに来たのは良いが、定期券もお金も持っていない。さらには、電車に乗るという目的も持っていない。さて、どうしたものか。そう思ってポケットに手を突っ込むと、予想に反して定期入れの感触があった。三秒程考え、毎日の無意識の行動はすごいな、と結論付け、感触をポケットから引き抜いた。手段を手に入れたので、改札を抜ける。目的は無いままであったが。

   特急電車の車内。帰宅ラッシュと言うべきか、人口密度は高く、人と人とが苛々し合う距離感だ。ぼくも見知らぬ女にリュックを押し付けられている。しかしどうして皆がこうも押し合うのだろう。お前が邪魔だ。お前こそが邪魔だ。そんな事を互いに考え、この状況があるのか。電車とは、不思議な空間だ。他の場で出会ったら、にこやかに挨拶をし合っていたかもしれない人間達も、ここでは無言で押し合い、睨み合う。ゾンビとはまた違うが、黙ってストレスを抱える人間達は、皆同じように見えた。

   と、一様に見えた人間達の中の一人に視線を奪われる。

   外見としては没個性なサラリーマン。しかし、何かがおかしかった。目を凝らす。

   サラリーマンの男の手が、前にいる女性の尻に触れていた。

   気づかれないように……とでも思っているのか、時々触っている。車体の揺れに乗じるかのように。しかし、これが揺れの所為のみではない事は、被害者と目撃者のぼくには明らかだった。

   女性の無抵抗さに安心したのか、それとも何度も触れる事で気を大きくしたのか、男の手の滞在時間は少しずつ長くなっていく。触れ、置き、指を這わせ、撫で、そしてゆっくりと揉む。

すごい、これが痴漢と云う奴か。初めて見た。目的は無かったが、電車に乗って良かったかもしれない。

   女性の顔を見ると、恥ずかしそうに困惑したかのように、大人しそうな顔を僅かに歪めていた。男の行為がエスカレートする毎に眉が下がり、頬が染まる。きっとこの女は自身に起こっている事態を周囲に伝えられる程、気は強くないだろう。きっと、普段から嫌な事を嫌と言えずに甘んじて受け入れているのだろう。割りと気の弱そうな顔をしているから、この分では受難が多いだろう。

   ぐるり、と女がこちらを向いた。突然だった。ぼくの目は狼狽え泳ぐ。もう一度視線を女の方へ。女の目は潤み、哀しみのようなものをたたえ、まるで助けを求めているかのような顔だった。助け?

   なんだ、それは。ぼくの方が助けてほしいくらいだ。ぼくに助けられる事なんて、何も無い。ぼくに助けられる人間なんて、誰もいない。

   ぼくは目を逸らした。そこからは、痴漢男と女の方など一切見ない。大丈夫。どこかのAVみたいな目までは遭わないだろう。こんなに人がいるんだし、誰かが助けてくれるよ。現実はそこまで厳しくないよ、きっとね。

気分が悪くなってきたので、次に止まった駅で降車。地元駅から六駅程先に来た。帰りは各駅停車で帰ろう。やはり、人の少ない所でゆっくりと座っていた方が良い。

 

   そんな調子で徘徊を済ませ、帰宅した頃には午後十時を回っていた。カギは開いていた。音の鳴らないように慎重にドアを開け、気配を殺して廊下を進んだ結果、母親が風呂に入っているらしい事に気がついた。ならば、もう良い。不必要な警戒は疲れるだけだ。緊張を解いて階段を上る。リビングのテーブルを見ると、ラップをかけられた一人分の料理が綺麗に並べられていた。ぼくの席に置いてある。その料理を全て冷蔵庫に仕舞い、階段を上がって自室へ。ベッドに倒れ込む。このまま寝てしまおう。お風呂なんて、起きたら入れば良い。何だって良い。行動したくない。生きていたくない。死にたくない。ならば、眠ろう。

   その様は一見死体のようだが、眼球も内臓も動いているし、夢だって見る。死にきれないゾンビの、休息だ。


   六月十四日のぼくは、朝七時十分に目が覚めた。普段は六時半に起き、七時半に家を出ている。つまり、寝坊だった。

   時計と現状を確認して十秒ぼんやり。布団を飛び出し、階段を駆け下りる。

   「何で起こしてくれなかったんだよ!」

   「一応声はかけたわよ、でもあんた怒るし……」

   「何だよ、役に立たねーな!」

   急いで階段を駆け上がる。こんな事をしている時間が勿体無い。寝巻きを脱ぎ捨て、制服に着替えながらカバンを掴む。定期、スマホ、目薬をポケットへ。そして階下に降り、顔を洗う。そしてさらに階段を降りる。

   「ちょっと、朝ご飯用意してるわよ!」

   そんなもの用意してるぐらいなら、キチンと起こしてくれよ。ぼくは靴を履いて、ドアを開ける。

   早めに歩きながら、思い出す。そういえばお風呂に入り損ねている。でも良いか。どうせ、誰も見ていない。よりゾンビらしくなっただけだ。

   駅について、気がついた。むしろ、普段より早く着いてしまった。これなら朝ご飯を食べられたかもしれない。思えば昨日の昼以来何も食べていないので、さすがにお腹が減ってきた。パンでも買おう。

   パンをかじりながらホームへと着くと、ちょうど電車がやって来た。普段より一本早いが、まぁ良いだろう。何か新しい事が見つかるかもしれない。

パンを咥えながら電車に乗ると、ちらりちらりと幾つか視線を浴びた。なんだよ。人間が生存する上で必要な欲求を満たして何が悪い。睨み返すと、相手の視線は外れた。ぼくも視線を外す。

   欲求か……。思えば、昨日見た痴漢だって欲求を満たす行為だ。人間が生存する上で必要なのかもしれない。となると、あの男をただ責める訳にもいかないな。

   いや……欲求?

   ぼくは考え直した。

   あれは本当に、性欲のみからなる行為だったのだろうか。

   例えば、今のぼくの行為。食事は正しく欲求を満たすものであり、これは純粋に食欲からなる行為である。だが、痴漢は?正しく性欲を満たしたいなら、セックスをすれば良い。相手がいないのなら、そういう店にでも行けば良い。きっちりきっかり性欲を満足させる事が出来るだろう。だが、痴漢とは、相手の身体に触れるだけ。しかも、服ごしに。良くて、下着とその中身に僅かに触れる程度。それ以上は、恐らく現実世界では難しいだろう。もしかしたら、それ以上な事が起こるケースもあるのかもしれないが、少なくとも昨日はそうでは無かった。満員電車で人目を気にしながら、尻に触れるのみ。果たしてこの程度で性欲が正しく満たされるのか。否、欲求のみの問題として考えた場合、これは明らかに不足している。それに、多大なるリスクも背負う事になる。では、あの行為の目的は何か。

   停車。ぼくの降りる駅は次の次の次。車内の人間が増え、ぼくは奥へと移動する。目の前に来た奴が自分の髪の毛を触る。触る。触る。触る。触る。何だこいつは、そんなに触っても綺麗になる訳じゃない。目障りな奴だ。

   くるり、と身体ごと向きを変えた。    

   ……と、何処か見覚えのある人物が居た。黒髪の女。

   しかし、名前や自分との関係性と云ったデータは思い出せない。こんなにもあやふやだという事は、中学時代……もしくは小学校時代の知り合いだろうか。それにしては、最近見たような。あ。

   思い出した、昨日見たばかりだ。そもそも名前なんて知らなかった。昨日痴漢されていた女だ。

   思わず顔を元の方向へ。しかしそこには髪触りウザ人間。我慢。我慢……ああ、くそ!なんだってんだ!どうせ向こうは、ぼくの顔なんざ覚えちゃないだろ。それに、別にぼくが痴漢した訳じゃない。たまたま同じ車両に乗り合わせただけだ。そうだ、やましくなんか無いじゃないか。

   ぼくは顔を身体と同じ方向に戻す。女はこっちを向いておらず、窓の外を見つめている。ぼくは少しホッとした、と思う。

   女をジッと観察する。昨日と違って、顔を赤らめていたり困惑の表情を浮かべていたりはしていない。おそらくプレーンの顔だったが、それでも何処か大人しそうな、弱さを感じる顔をしていた。他人の嗜虐性を引き出す雰囲気がある。だから、昨日被害にあっていたのだろうか。

   ……ああ、何となく分かった気がする。痴漢していた男の目的だ。やはり、性欲のみでない。きっと、ストレス解消だろう。

   ぼくはあの男の日常など知らないが、サラリーマンとはきっとストレスの溜まる立ち位置だろう。それに、あの電車の混みよう。それに、六月の湿り気。それはもう、ぼく同様にあの男は苛立っていたのだろう。もしかしたらあの日、上司にこっぴどく怒られたのかもしれない。まぁ、なんだって良いのだが。

   そんな男の前に、この女が現れた。弱っちそうで、人の嗜虐性を引きずりだす。となると、この女にぶつけてやろうと思うのだろう。ぶつけるものは、一見、性欲。実は、日々のストレス。

   相手を虐げる事によって、虐げられてきた自分が優位に立てる。強者になったかのような感覚。さぞかし気持ち良いのだろう。なるほどね。

停車。人が少し降り、さらに乗ってくる。今度のぼくは断固として自分のスペースを明け渡さない。ぼくの降りる駅は、次の次。

   しかし、本当に人が多いものだ。いくらストレス解消の為とはいえ、こんな場所で痴漢を行うのはリスクが高い。

   ……待てよ。もしや、そのリスクも関係あるのだろうか。

   人はタブーを犯したがる生き物だ。   

   「だめ」と言われたら、やりたくなる。実際に行動に移すかは別として、衝動には駆られる。リスク。スリル。犯罪。ただのストレス解消が、タブーと合わさって禁断の果実となる……。

   その味は、さぞかし魅力的なのだろう。

   不意に女の髪が美しく輝いたように見え、ツバを飲み込む。

   何考えてるんだ。確かに黒くてツヤはあるが、ボサボサのばさばさじゃないか。こんな女に、女としての魅力は、無い。何も、無い。

   ……禁断の果実としての魅力は?

   意識がまるごと掴まれたような感覚がぼくを襲う。タブー、リスク、快楽、ストレス解消、嗜虐性、スリル、果実……あああ、これを喰らえばゾンビのぼくも、何か大事なモノを得る事が出来るのだろうか。

   ぐらり、と視界が揺れる。意図せず、二歩程前に進んでしまう。驚く。周りの人間の冷たい目。なんだ、停車しただけか。

   女に目を戻すと、電車から出て行くところだった。なんだって。待ってくれ。待ってくれ。ぼくを、ぼくを助けてくれ。

 

   ぼくが降りたところで、ドアは閉まった。