1-⑶さて、問題。ストーカーです!
1-⑵ さて、問題。ストーカーです!
1-⑴ さて、問題。ストーカーです!
第一章「出題」
◆
大人になったら、死のうと思っている。
澱む空に、絡まるような熱気と湿り気、降り止まぬ雨。そんな空気は、浴びた人間まで澱ませていくようで、ぼくはこの季節が好きではない。意識が重くなる。死ぬにしても、六月は避けたい。こんな時期に、わざわざ死にたくない。かと言って、湿気で気が滅入るので生きていたくもない。六月のぼくはゾンビのように日々を過ごしていた。
今日、六月十三日もゾンビのように朝の支度をし、ゾンビのように電車に乗り、ゾンビのように授業を受けて、ゾンビのように帰宅し、そして先ほど、死体のようにベッドに倒れ込んだところだ。このようにゾンビの如きぼくだが、クラスから浮く訳でも迫害される訳でもない。だって、クラスメイトもみんなゾンビなのだから。特に今日の放課後は、皆の瞳の澱みに拍車がかかっただろう。ぼくも。うんまぁ。別にそんな事良いんだけど。あんな紙切れと文字なんてどうでも良いんだけど。
ぼくは起き上がった。死体ではいられない。別に、紙切れを思い出してやる気を出した訳ではない。耐えられなかったのだ。こんな季節にベッドに寝転んでも快感とは遠く、むしろ不快感に纏わり付かれて苛ついてくる。
再びゾンビとなったぼくは自室を出て、階下に降りる。冷蔵庫に辿り着き、お茶を取り出し、コップに注ぎ、口に含む。だが、快感はまだ遠い。何だこれは。冷蔵庫ってのは物を冷やす為にあるんじゃないのかよ。冷たさが全然ぼくの喉を刺さない。ふざけるなよ。製氷室を開け、氷を二、三個。少し混ぜて再び呷る。まだまだ。氷を入れる。こんなものでは、駄目だ。氷を入れる。もっと、澱んだ僕の奥深くに届くような、ぼくを貫いて目を覚まさせるような刺激じゃないと駄目だ。氷を入れる。ザクザクザクザク。最低限の隙間を残してコップを満たし、お茶を注ぐ。カラン、と音を立てて新たなスペースが出来たので、もう一つ氷を積む。そうして出来上がった作品を掴むと、冷たさがぼくの手を襲った。しかしこんな刺激では、ぼくの目は覚めない。そのまま、零さないよう慎重に階段を上がる。だが慎重さとは、必ずしも実を結ぶ物ではない。澱んだぼくの手が歪み、その僅かな揺れを感知した作品は少量の中身をぼくの足へとぶちまける。その刺激に驚き、さらに揺れ、再び衝撃を浴びる。そこからは慎重さなど捨て去って階段を駆け上がり、机に刺激の原因を置いて壁を蹴りつける。
ベッドに倒れこむ。腹にぶち当たった空調のリモコンを、床へと投げ捨てる。だめだ、落ち着こう。落ち着く事が大事だ。そうだ、ぼくには自制心がある。感情のままに暴れるだけの子どもではない。落ち着け。落ち着こう。ひと呼吸。ふた呼吸。み呼吸。
よし、大丈夫。大丈夫だ。もう落ち着いた。それにしても、あれだな。こうも苛つくのはきっと、梅雨独特の湿気と暑さの所為だな。ならば、対処は簡単。空気を涼しく爽やかにすれば良いのだ。クーラーで世界を冷やそう。
しかし、リモコンが見当たらない。いつもベッドの上に置いているのだが。
……ああ、さっき投げたんだっけ。床に視線を這わせる。ゴミ箱の近くに発見。だが、ボタンを押しても反応が無い。壊れているのか。強めに。連打。裏返し、気がつく。電池が入っていなかった。恐らくさっきの衝撃で何処かへ転がったのだろう。再び視線を這わせ、ベッドの下と椅子の下とで見つけ出す。手を伸ばして回収し、リモコンに装着。電源ボタンを押すと、今度はきちんと反応した。ストレスを軽減させる為にクーラーをつけようと思ったのに、その作業で余計に苛々してしまった。本当に腹立たしい季節だ。設定温度を20℃に。
浴びせられる人工的な涼しさは、なかなか心地よい。これなら、ベッドに寝転がるのも快感となる。最初からこうすれば良かった。便利な道具には、頼れば良いんだ。道具とはその為に存在している。
しかし、ゾンビのように生きていると自身を表現したが、ゾンビの癖に暑さも痛さも冷たさも感じ、そしてそれに感情を左右されるなんて何とも滑稽なものだ。所詮ぼくは、人間なのだろう。ゾンビの目をして脳の一部が腐った、人間だ。
いつからだろう、クラスメイト達が腐っていったのは。いつだっただろう、大人になったら死のうと決意したのは。小学校に入ったばかりの頃は学校が楽しかった。記憶は朧げだが、クラスの仲間たちと過ごす日々は輝いていた筈だ。そんな輝く小学生の頃、近所に住むお兄さんに聞いた。お兄さんはどこで働いてるの?僕はまだ学生だよ、大学生なんだ。だいかくせい?そう。学校はね、いくつか種類があるんだ。きみは今小学生でしょ。うん。その次は中学生。そのまた次は高校生。そして、次に大学生になるんだ。へー、先は長いんだね。まぁ、大学生までならなくても良いんだけどね。でもぼく、お兄さんみたいに大学生になりたい!そうかい?じゃあ、がんばって勉強するんだよ。うん!……そんな事があった。朧げな記憶の中で、何故かこの会話は強く残っている。
小学生、中学生、高校生、大学生。このルートを聞いたあの時、率直に「長いな」と思った。高校生ぐらいは要らないんじゃないだろうか。名前も大中小の内、一つだけ浮いてるし。そんな事を考えた小学生のぼくは、中学生のぼくとなった。学校の勉強が難しくなり、ぼくは少し授業が面倒になってきた。その頃に親に言われた。がんばって勉強するのよ。どうして?そうね。そうしたら、良い大学に入れるわ。……そうだった。ぼくの乗っているルートのゴールは大学だった。その為に、がんばって勉強をする必要があるのだ。ならば、がんばろう。中学生のぼくはがんばって、がんばり、数学と英語と国語と社会と理科をがんばって、高校生のぼくになった。
ぼくが進んだ高校は所謂、進学校と云う奴だった。国公立当たり前、東大京大多数輩出。ぼくが狙うのは、勿論東大だ。がんばって良い大学に進むと決めたのだ。そしてがんばってきたのだから、それ相応のゴールを切らなければ。高校のクラスメイト達は、中学と比べてがんばって勉強してきた人が多く、ぼくは居心地が良かった。今思えば、中学の連中は何とまあ、馬鹿の集まりだった事か。がんばったぼくの居場所は、ここだ。
しかし、がんばって居場所を手に入れたとは言え、本当の目的はここではない。そう、ゴールはあくまでも大学なのだ。まだまだ、がんばりたりない。がんばろう。
ぼくはがんばろう、周りのみんなもがんばっている。そうだ、そんな時に気がついたんだった。周りのみんなが腐っている。脳の一部が腐ってきている。定期テストに一喜一憂し、模擬試験の結果に感情を揺さぶられ、文字・数字に踊らされて日々を送っている。確かにゴールを見ているのだが、良く考えるとゴールしか見ていない。それ以外の生活や感情等どうでも良いものかのように。人間として何かを失ったかのように。
気がついてしまった時にぼくは戦慄した。が、すぐに思い直した。ゴールを見ていて何が悪い?そうだ、ぼくだってゴールを目指してこれまでやって来たんだ。小学生の時に知り、中学生でがんばり、高校生の今、もっとがんばり、そして……あれ?ゴールしたらその後は?ゴールしか見てこなかったぼくの人生は?
そうだ、そんな時に思ったんだ。大人になったら死のうと。大丈夫、ゾンビから死体に変わるだけだ。
部屋の扉が開く。母親の登場。反射的に顔を顰める。
「ちょっとアンタ、何ごろごろしてんのよ。受験生でしょ。しかも何なのこの部屋!冷房きつすぎよ!電気代もバカにならないんだし、地球の為につけすぎちゃ駄目よ」
母親は勝手にぼくの部屋のリモコンに手を取り、空調の電源を切る。なんて事をしてくれるんだ。地球の為?知るか。ぼくの世界が快適なら、ぼくはそれで良い。
「しかもあんた、階段で水零したでしょ。危ないんだから、ちゃんと拭いといてよ」
「水じゃない、お茶だ」
「どっちでも良いわよ、そんなの」
母親の滞在時間が延びる程に、母親の視線がぼくの部屋を泳ぐ事への不快感は増すばかり。頼むから、ぼくの空間を邪魔しないでくれ。
「というか母さん、勝手に部屋に入って来るなって言ったじゃないか。受験生なんだし、勉強の気が散ったらどうするんだよ」
「勉強してないじゃない」
「うるさい、今からするところなんだよ。休憩だって必要じゃないか」
「ちゃんと勉強しなさいよ。あ!そういえばあれ、そろそろ来たんじゃないの。ホラ、こないだ受けた模試の結果」
背筋が、冷え渡る。足にお茶を零した時よりも、遥かに冷たい。
「ま」声が震える。だが、動揺を悟られてはいけない「まだだよ!いちいち干渉してきてうっせーな!早く出 ていけよ!」
「な、なんなのよ……。もう晩ご飯出来るからね」
母親が出て行く。トントントン、と階段の音を確認してから、ドアを殴りつける。もう一度殴ろうかと思っていたが、思ったより音が大きく鳴ったので中止。少しの間耳を澄ませ、そしてベッドに戻る。
落ち着かない。机の上に置いたままにしていたコップを手に取り、一気に喉へ流し込む。冷たさは冷蔵庫に入れていた時の比じゃなく、クーラーで冷えた身体に適した温度では無かった。しかし、さっきの背筋への衝撃には及ばない。あれの方が、あの紙に書かれた文字の方がもっと冷え渡っている。
再びベッドに倒れ込む。起き上がる。空調のリモコンを掴み、投げ捨てる。頭をがじがじと掻く。床を強めに踏みつける。
学校カバンを、手に取る。教科書の間に挟まった、紙を摘み、誰宛かも分からない悪態をついてから、引きずり出す。
先月受けた模試の、結果が記されたプリントだ。社会は偏差値76となかなか。76という数字を十五秒程眺めてから、他の情報に目をやる。68…60…62…49…、49?49だと?49っていうと、50より下で、つまり平均以下なのだ。がんばってきたぼくが平均以下なんて、意味が分からない。プリントの右側に目をやる。第一志望、東京大学なんたら学部…E判定。第二志望、東京大学ほにゃほにゃ学部…E判定。第三希望の京都大学までもが、E判定。第四として書いた京都大学のあれあれ学部だけ、D判定だった。となると、京都大学のあれあれ学部が一番合格の可能性が高いのだろう。やったね。紙を真半分に破る。くしゃくしゃ、ぽい。
何かがとても、馬鹿馬鹿しい。
試しに机へ向かい椅子に座ってみたが、十秒と経たない内に何かしらを蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。こんな所にいては、毒だ。
そうだ、ぼくはゾンビじゃないか。そう、ゾンビだ。ゾンビならゾンビらしく、街を徘徊しよう。ポケットのスマホ以外に何も持たず、部屋を出て、階段を降り、キッチンとリビングを通り抜けて玄関へ。「ちょっと衛!どこ行くの、もうご飯出来たわよ!」という叫び声は、一応耳に入ったが脳までは届かない。だって一部が腐った脳だし、仕方ないでしょ。言っとくけど、アンタにも責任はあるよ。
さて、外に出たのは良いがどうやって徘徊したものか。目的のない行動とは、案外に難しいものである。……とはいえ、目的のある行動が簡単だという理論が導き出される訳ではないのだが。そうだ。とりあえず、最寄り駅まで歩いてみよう。
通い慣れた道を歩くのは、無意識に体を動かせて良いものだ。いや、もちろん意識はあるのだが、体の方にほとんど気を回さなくて良い。つまり、思考に適している。ゾンビのように徘徊するつもりの外出が、思考に適した行為となってしまうなんて何やら皮肉めいているが。まあ、どうせ腐らせた脳を持つぼくが巡らせる思考なんて、至極くだらないものであり、その脳内によって目が輝く事も身体がしゃきっとする事も無いので、結局ぼくはどう足掻いてもゾンビという枠から逃れられない。
そうして身体を引きずって五分程、気がついたら駅についていた。道中の思考など覚えていない。ほら、その程度だ。
エスカレーターに乗り、改札口へ。
そういえばここに来たのは良いが、定期券もお金も持っていない。さらには、電車に乗るという目的も持っていない。さて、どうしたものか。そう思ってポケットに手を突っ込むと、予想に反して定期入れの感触があった。三秒程考え、毎日の無意識の行動はすごいな、と結論付け、感触をポケットから引き抜いた。手段を手に入れたので、改札を抜ける。目的は無いままであったが。
特急電車の車内。帰宅ラッシュと言うべきか、人口密度は高く、人と人とが苛々し合う距離感だ。ぼくも見知らぬ女にリュックを押し付けられている。しかしどうして皆がこうも押し合うのだろう。お前が邪魔だ。お前こそが邪魔だ。そんな事を互いに考え、この状況があるのか。電車とは、不思議な空間だ。他の場で出会ったら、にこやかに挨拶をし合っていたかもしれない人間達も、ここでは無言で押し合い、睨み合う。ゾンビとはまた違うが、黙ってストレスを抱える人間達は、皆同じように見えた。
と、一様に見えた人間達の中の一人に視線を奪われる。
外見としては没個性なサラリーマン。しかし、何かがおかしかった。目を凝らす。
サラリーマンの男の手が、前にいる女性の尻に触れていた。
気づかれないように……とでも思っているのか、時々触っている。車体の揺れに乗じるかのように。しかし、これが揺れの所為のみではない事は、被害者と目撃者のぼくには明らかだった。
女性の無抵抗さに安心したのか、それとも何度も触れる事で気を大きくしたのか、男の手の滞在時間は少しずつ長くなっていく。触れ、置き、指を這わせ、撫で、そしてゆっくりと揉む。
すごい、これが痴漢と云う奴か。初めて見た。目的は無かったが、電車に乗って良かったかもしれない。
女性の顔を見ると、恥ずかしそうに困惑したかのように、大人しそうな顔を僅かに歪めていた。男の行為がエスカレートする毎に眉が下がり、頬が染まる。きっとこの女は自身に起こっている事態を周囲に伝えられる程、気は強くないだろう。きっと、普段から嫌な事を嫌と言えずに甘んじて受け入れているのだろう。割りと気の弱そうな顔をしているから、この分では受難が多いだろう。
ぐるり、と女がこちらを向いた。突然だった。ぼくの目は狼狽え泳ぐ。もう一度視線を女の方へ。女の目は潤み、哀しみのようなものをたたえ、まるで助けを求めているかのような顔だった。助け?
なんだ、それは。ぼくの方が助けてほしいくらいだ。ぼくに助けられる事なんて、何も無い。ぼくに助けられる人間なんて、誰もいない。
ぼくは目を逸らした。そこからは、痴漢男と女の方など一切見ない。大丈夫。どこかのAVみたいな目までは遭わないだろう。こんなに人がいるんだし、誰かが助けてくれるよ。現実はそこまで厳しくないよ、きっとね。
気分が悪くなってきたので、次に止まった駅で降車。地元駅から六駅程先に来た。帰りは各駅停車で帰ろう。やはり、人の少ない所でゆっくりと座っていた方が良い。
そんな調子で徘徊を済ませ、帰宅した頃には午後十時を回っていた。カギは開いていた。音の鳴らないように慎重にドアを開け、気配を殺して廊下を進んだ結果、母親が風呂に入っているらしい事に気がついた。ならば、もう良い。不必要な警戒は疲れるだけだ。緊張を解いて階段を上る。リビングのテーブルを見ると、ラップをかけられた一人分の料理が綺麗に並べられていた。ぼくの席に置いてある。その料理を全て冷蔵庫に仕舞い、階段を上がって自室へ。ベッドに倒れ込む。このまま寝てしまおう。お風呂なんて、起きたら入れば良い。何だって良い。行動したくない。生きていたくない。死にたくない。ならば、眠ろう。
その様は一見死体のようだが、眼球も内臓も動いているし、夢だって見る。死にきれないゾンビの、休息だ。
六月十四日のぼくは、朝七時十分に目が覚めた。普段は六時半に起き、七時半に家を出ている。つまり、寝坊だった。
時計と現状を確認して十秒ぼんやり。布団を飛び出し、階段を駆け下りる。
「何で起こしてくれなかったんだよ!」
「一応声はかけたわよ、でもあんた怒るし……」
「何だよ、役に立たねーな!」
急いで階段を駆け上がる。こんな事をしている時間が勿体無い。寝巻きを脱ぎ捨て、制服に着替えながらカバンを掴む。定期、スマホ、目薬をポケットへ。そして階下に降り、顔を洗う。そしてさらに階段を降りる。
「ちょっと、朝ご飯用意してるわよ!」
そんなもの用意してるぐらいなら、キチンと起こしてくれよ。ぼくは靴を履いて、ドアを開ける。
早めに歩きながら、思い出す。そういえばお風呂に入り損ねている。でも良いか。どうせ、誰も見ていない。よりゾンビらしくなっただけだ。
駅について、気がついた。むしろ、普段より早く着いてしまった。これなら朝ご飯を食べられたかもしれない。思えば昨日の昼以来何も食べていないので、さすがにお腹が減ってきた。パンでも買おう。
パンをかじりながらホームへと着くと、ちょうど電車がやって来た。普段より一本早いが、まぁ良いだろう。何か新しい事が見つかるかもしれない。
パンを咥えながら電車に乗ると、ちらりちらりと幾つか視線を浴びた。なんだよ。人間が生存する上で必要な欲求を満たして何が悪い。睨み返すと、相手の視線は外れた。ぼくも視線を外す。
欲求か……。思えば、昨日見た痴漢だって欲求を満たす行為だ。人間が生存する上で必要なのかもしれない。となると、あの男をただ責める訳にもいかないな。
いや……欲求?
ぼくは考え直した。
あれは本当に、性欲のみからなる行為だったのだろうか。
例えば、今のぼくの行為。食事は正しく欲求を満たすものであり、これは純粋に食欲からなる行為である。だが、痴漢は?正しく性欲を満たしたいなら、セックスをすれば良い。相手がいないのなら、そういう店にでも行けば良い。きっちりきっかり性欲を満足させる事が出来るだろう。だが、痴漢とは、相手の身体に触れるだけ。しかも、服ごしに。良くて、下着とその中身に僅かに触れる程度。それ以上は、恐らく現実世界では難しいだろう。もしかしたら、それ以上な事が起こるケースもあるのかもしれないが、少なくとも昨日はそうでは無かった。満員電車で人目を気にしながら、尻に触れるのみ。果たしてこの程度で性欲が正しく満たされるのか。否、欲求のみの問題として考えた場合、これは明らかに不足している。それに、多大なるリスクも背負う事になる。では、あの行為の目的は何か。
停車。ぼくの降りる駅は次の次の次。車内の人間が増え、ぼくは奥へと移動する。目の前に来た奴が自分の髪の毛を触る。触る。触る。触る。触る。何だこいつは、そんなに触っても綺麗になる訳じゃない。目障りな奴だ。
くるり、と身体ごと向きを変えた。
……と、何処か見覚えのある人物が居た。黒髪の女。
しかし、名前や自分との関係性と云ったデータは思い出せない。こんなにもあやふやだという事は、中学時代……もしくは小学校時代の知り合いだろうか。それにしては、最近見たような。あ。
思い出した、昨日見たばかりだ。そもそも名前なんて知らなかった。昨日痴漢されていた女だ。
思わず顔を元の方向へ。しかしそこには髪触りウザ人間。我慢。我慢……ああ、くそ!なんだってんだ!どうせ向こうは、ぼくの顔なんざ覚えちゃないだろ。それに、別にぼくが痴漢した訳じゃない。たまたま同じ車両に乗り合わせただけだ。そうだ、やましくなんか無いじゃないか。
ぼくは顔を身体と同じ方向に戻す。女はこっちを向いておらず、窓の外を見つめている。ぼくは少しホッとした、と思う。
女をジッと観察する。昨日と違って、顔を赤らめていたり困惑の表情を浮かべていたりはしていない。おそらくプレーンの顔だったが、それでも何処か大人しそうな、弱さを感じる顔をしていた。他人の嗜虐性を引き出す雰囲気がある。だから、昨日被害にあっていたのだろうか。
……ああ、何となく分かった気がする。痴漢していた男の目的だ。やはり、性欲のみでない。きっと、ストレス解消だろう。
ぼくはあの男の日常など知らないが、サラリーマンとはきっとストレスの溜まる立ち位置だろう。それに、あの電車の混みよう。それに、六月の湿り気。それはもう、ぼく同様にあの男は苛立っていたのだろう。もしかしたらあの日、上司にこっぴどく怒られたのかもしれない。まぁ、なんだって良いのだが。
そんな男の前に、この女が現れた。弱っちそうで、人の嗜虐性を引きずりだす。となると、この女にぶつけてやろうと思うのだろう。ぶつけるものは、一見、性欲。実は、日々のストレス。
相手を虐げる事によって、虐げられてきた自分が優位に立てる。強者になったかのような感覚。さぞかし気持ち良いのだろう。なるほどね。
停車。人が少し降り、さらに乗ってくる。今度のぼくは断固として自分のスペースを明け渡さない。ぼくの降りる駅は、次の次。
しかし、本当に人が多いものだ。いくらストレス解消の為とはいえ、こんな場所で痴漢を行うのはリスクが高い。
……待てよ。もしや、そのリスクも関係あるのだろうか。
人はタブーを犯したがる生き物だ。
「だめ」と言われたら、やりたくなる。実際に行動に移すかは別として、衝動には駆られる。リスク。スリル。犯罪。ただのストレス解消が、タブーと合わさって禁断の果実となる……。
その味は、さぞかし魅力的なのだろう。
不意に女の髪が美しく輝いたように見え、ツバを飲み込む。
何考えてるんだ。確かに黒くてツヤはあるが、ボサボサのばさばさじゃないか。こんな女に、女としての魅力は、無い。何も、無い。
……禁断の果実としての魅力は?
意識がまるごと掴まれたような感覚がぼくを襲う。タブー、リスク、快楽、ストレス解消、嗜虐性、スリル、果実……あああ、これを喰らえばゾンビのぼくも、何か大事なモノを得る事が出来るのだろうか。
ぐらり、と視界が揺れる。意図せず、二歩程前に進んでしまう。驚く。周りの人間の冷たい目。なんだ、停車しただけか。
女に目を戻すと、電車から出て行くところだった。なんだって。待ってくれ。待ってくれ。ぼくを、ぼくを助けてくれ。
ぼくが降りたところで、ドアは閉まった。