2-⑴ さて、問題。ストーカーです!
◇
今日も赤のスカートだ。
昨日買ったピンクのスカートも気に入っているが、やはりこれが一番良い。鮮やかで、白い足が映える。短いスカートを穿くようになってから、世界が変わったようだ。まだ四日目だが、毎日が楽しくて仕方がない。朝から降り続ける雨も、定期入れが見当たらなかった事も、全く気にならないくらいだ。
それに、この目。
「あっ、弘菜。おはよう!」
弘菜は私を見て、一瞬目を見開き、少しの間、口を開けていた。
「ああ、癒真……おはよ」
驚いているようだ。私は優しく微笑みかける。
弘菜はしばらく私を見つめた後、席に着いた。なんだ。今回は何も言ってくれないのか。少しざんねんだな。でも、弘菜に少しずつ近づいているようで、嬉しいよ。
私は弘菜の隣に座った。
金曜の帰り道の事だった。電車で見かけた広告に目を引かれた。
〈“デカ目”は作れる!〉
化粧品の広告で、なるほど確かに写真の女性は大きな目をしていた。そしてそれはぱっちりとしていて、美しかった。この目がこの化粧品によって作れるというのか。思えば、弘菜のようなお姉さん達は、みな美しい目を持っている。あれらは彼女の生まれつきのものなのだと思っていたが、もしかしたら私も手に入れられるのだろうか。
下半身を見る。赤いスカート、伸びる足。そうだ、私もお姉さんの資格を持っているのだ。ならば、私もその目が欲しい。
家の近くのドラッグストアに寄った。これまで利用する事は多かったが、化粧品コーナーに行くのは初めてだった。少し恥ずかしかったが、迷いは無い。
棚に並ぶ商品を見ていると、どれも似たように見えた。頭が痛くなりそうだったが、気を持ち直して、広告で見た商品を探す。探す。あった。手に取る。
レジに商品を置く時は、スカートの時と同様に緊張したが、その時と違って自信はあった。
こうして私は、お姉さんの目を手に入れた。
チャイムが鳴る。しかし、まだ先生は来ない。
「そういえば弘菜!本当に同じ大学だったんだね」
「え?」
「ほら、まーくん」
弘菜はスマホから私へと視線を移した。
「会ったの?」
「あ、うん。たまたま会ったの」
ガラリ、とドアが開き、先生が入ってくる。
「……ふぅん」
弘菜は先生をちらりと見て、再びスマホに目を落とした。
まーくんの事を思い出して、少し胸が暖かくなった。
また学校内で会えれば良いな。
外を眺めると、変わらず雨が降っていた。さーっと云う音は、耳に心地よい。
まーくんと会った日。一週間前じゃなくて、学校内で会った日。金曜日だ。あの日は綺麗に晴れていて、空は青く、爽やかな風が吹いていた。私はそんな風に優しく撫ぜられる一輪の花だった。日の光を存分に受け、伸び伸びと舞っていた。赤い花だったのだ。
今日だって、この天気で萎れる事はない。雨を受けて花弁を伏せてはいるが、そこには憂いも艶もある。雨の日の花は、妖しく美しい。
なんて、自分を花に例えるのは恥ずかしい行為なのかもしれない。でも、世間では良く言われるじゃないか。“女の子は花だ”……以前の私なら、自分になどとても当てはめられるものではなかった。しかし、今なら大丈夫だ。
このスカートを穿いていると、力が湧いてきた。私に自信をつける不思議な力が、魂の底から湧きあがってくるのだ。
ああ、まーくん。この美しくなった花を愛でてはくれまいか。その為なら、私は努力しよう。手段を得よう。美しくなろう。貴方に、会いたい。
「まーくんって何処にいるのかな」
「え?」
無意識の内に声に出てしまっていた。弘菜がこちらを見ている。先生は授業を続けている。
私は声が大きくなりすぎないように気をつけながら、言う。
「いや、何処の学部なのかなって思って」
「ああ。経済学部らしいよ」
「そうなんだ」
経済学部。心にメモをした。何処かの教室で授業を受けている彼の姿を思い浮かべると、胸が高鳴った。胸の高鳴りと共に、昨日の事を思い出す。昨日は予定が無かったので、家で舞っていた。買ったばかりのピンクのスカートを穿いてくるくる回ると、可愛らしい花のようだった。赤いスカートは、美しい花だ。そうして鮮やかな色と露出された自分の足を見ながら踊っていると、身体も心もとても軽かった。背中には今にも羽根が生えて飛び立てそうだったし、心は既に美しい場所に在った。ふわり、ふわりと花は舞う。輝く光を掴む為に、右手を挙げる。
と、右手が何かにぶつかった。電球の紐だ。途端に、現実の自室が目に入る。狭く、埃っぽく、くすんでいる。私は顔を顰めた。急いで、鏡の前へと立つ。
そこには、花があった。鮮やかな花。私はホッと安堵し、またもや美しい世界へと入った。このスカートがあれば、大丈夫だ。
「……真、癒真!」
「え!は、はい!」
弘菜が私を覗き込んでいた。
「もー、チャイム聞こえなかったの?ぼーっとしちゃってさ」
夢うつつ。美しい世界が少しずつ薄れていく。現実は、こっちだ。どうやら考え事に耽っている間に、授業は終わってしまったようだ。
目を覚ます為に空気を取り込み、まばたきをする。目に何かが滲みたのか、痛みが走った。痛みに耐えながら荷物をまとめ、席を立つ。
「最近の癒真は、なんだかぼんやりしてる事が多いよね」
「そうかな?あはは、ごめんね……」
「……何か考え事でもあるの?」
「え?ど、どうだろう……」
弘菜をちらり、と見る。今日も弘菜はお姉さんだ。ピンクのタイツに、短い黒いスカートを穿いている。でも、私のスカートの方が短いかもしれない。
顔を見ると、バッチリと視線があった。ぱちくりとした綺麗な目。弘菜もあの化粧品を使っているのだろうか。
「ねえ、癒真」
弘菜は、じぃっと私を見ていた。
「な、何?」
「癒真ってもしかして、まーくんの事が好きなの?」
心臓を、掴まれた心地。
「そ」
妙な声が漏れるのみで、言葉を成せない。突然サウナに入れられたかのように汗が流れたが、不思議な事に身体は冷たかった。
弘菜が見ている。返事をしなければ、言葉を探す、探す。探す。言葉?何を言えば。まーくん?私がまーくんを、すき?胸が暴れだす。そうだ、まーくんが、すきだ、私は。何もおかしくない、女の子が誰でも当たり前に抱く感情なんだから。私だって、私だって。
弘菜が見ている。あ、でも弘菜、汗が伝う。弘菜が、まーくんを好きなんだったよな。“まーくん予約しとくから!”弘菜の声が蘇る。まーくんの腕に抱きつく弘菜。甘い声を出す弘菜。弘菜は、お姉さんだ。それなら、私なんかがでしゃばってはいけない。
弘菜が見ている。ああ、私は何を図に乗っていたんだろう。私なんかが、身の程も弁えず、大きすぎる夢を見て、烏滸がましい限りだ。私なんかが。ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。
「……ごめんなさい」
「何で謝んの?それどういう意味?」
「そ、その……」
言葉が、上手く紡げない。謝罪の気持ちはこんなにもいっぱいなのに。
きっと私は今、泣きそうな顔をしているのだろう。上なんて向けない。情けない。
「あのさ、勘違いしなくて良いよ」
勘違い?
私は顔を上げる。
弘菜が見ている。弘菜は呆れたように、ため息をついた。
「別に私が怒ってるとか言う訳じゃないから」
「で、でも……」
「癒真の気持ちが聞きたいだけなの」
「え……」
弘菜の顔を見る。優しく笑っている。聖母マリアの如く思えた。
小さく声が漏れそうになる。弘菜が大きく頷いた。
「大丈夫、私に構わず言ってみて!」
「あ……」
マリアの慈悲に後押しされ、純化された私の気持ちは、素直な言葉となった。
「すき。……私、まーくんの事が好き!」
心が晴れ渡るようだった。金曜日の空を思い出す。あの時、まーくんに会えて、そして赤いスカートを褒めて貰えた。そして胸が高鳴ったんだ。
その気持ちを今、純な言葉にして弘菜に伝える事が出来た。
「おー!もー、何―?良いじゃん!癒真ちんにも心の春が訪れたのね」
「えへへ……」
弘菜の優しい言葉が心へと溶ける。
弘菜を見る。聖母は優しい笑みをそのままにしていた。聖母と共に笑った。心地の良い笑いが生まれた。
「しかし癒真がねぇ。いやー、こういう事もあるのね。まーくんてば、モテ男なんだから」
「かっこいいもんね。……あ、でも弘菜……。弘菜は、まーくんと付き合ってるんじゃないの?」
「んー?あー、いやいや、別にそういうんじゃないの。まー、アンタと同じく片思い中って感じかな。こりゃライバルだぞ」
「ライバル……!」
それはつまり。
弘菜と同等の立場にある、という事だ。
「アンタに取られないように頑張んないとね。勝負だからねー、じゃあ、私は用事あるから、ここで」
「あ、うん」息を一度吸う。そして、手を上げる。「がんばろうね!」
教室に残る弘菜も、軽く手を上げた。
雨は上がっていた。曇り空だったが、先ほど抱いた感情の余韻で、身体はほのかに暖かかった。
◆
一週間と少しぶりに、キチンと朝から来る学校は、特に何も変わらなかった。まるで昨日も来ていたかのような心地にぼくは息を吐く。
教室に入った時に、久しぶりに現れるぼくへのリアクションがもう少しあるかと思ったが、そんな訳は無かった。クラスメート達はみんな、参考書に夢中だ。ぼくは誰とも挨拶せずに、自分の席へと着く。みんなのような行動を取る気には、なれなかった。
机を探る。ああ、こんなところにあったのか、数学の参考書。それに、見知らぬプリントの束がある。数学のプリントのようで、一枚目にメモがついていた。
〈二十二日までに必ず提出の事 山田〉
はは、アイツ、字きたねーな。黒板の字も、いつも汚い。メモを握り、プリントを机の中に仕舞う。
「おう、衛。久しぶりじゃん!」
声の方を向くと、吉留がいた。変わらないにやにやとした顔は、少し懐かしく感じた。
「おう、久しぶりだな」
「なにー、風邪か?体調管理ちゃんとしろよー。ってかお前、メール返せよな」
「ああ、メールな」左手の感触を思い出す。「すまん、ケータイちょっと調子悪くてな」
「まじかよー。まあ、課題の事で山田キレてたし、気をつけろよ」
「そうか、どうもな」
左手に握ったものを捨てる為に、ゴミ箱へと向かう。ぽい。ミッションクリア。そして机へと戻ると、まだそこには吉留がいた。
「なんだよ、自分の席戻んねーのかよ」
「や、だってお前久しぶりじゃん。しゃべろうぜ」
「なんだよ、勉強しろよ」
「冷たいなぁ。とか言って、嬉しそうな癖に。ああ、そうそう!これ言おうと思ってたんだ、あのアーティストの新曲出たじゃんか。お前聴いた?」
ぼくらの好きなアーティストの新曲について、しばし盛り上がる。一人でいる間は特に何も変わらないと感じたが、人と関わると、自分が日常へと戻るのが久しぶりなんだと感じた。
そう、人は他者と関わる事によって、様々な事を感じさせられる。
「井内、ちょっと良いか?」
朝礼の後に、担任の岡元にそう言われた。
「一限の冴木先生には、授業を抜ける事を俺から言っておく。だから、ちょっと話そうか」
「……はい」
そう簡単には、日常には戻れないらしい。特に何も変わらない、訳がないのだ。
岡元に連れてこられた教室には“生徒指導室”と書かれていた。その名称について脳内で皮肉りたかったが、何も思いつかなかった。岡元の後に倣い、指導室と名のつく教室に入る。長机が一脚に、椅子が向かい合って二脚。
「さあ、座って」
先に座った岡元に促され、空いている方の椅子に座る。向かい合って、逃れられない。懺悔室のようだ、と思った。まあ、本物の懺悔室など見たことがないのだが。
「今日ここに呼ばれた理由は分かるか、井内?」
「まあ……」
「まあ、じゃないよ。井内、先週一週間何してたんだ?」
蛍光灯の光を受け、岡元の眼鏡が白く光る。光る眼鏡がぼくを捉えている。ぼんやりと自分の脳内を巡っていて、ある記憶を見つけ出した。さっきこの場を懺悔室のようだと思ったばかりだが、違う。確か懺悔室では、懺悔しやすいように相手の顔が見えないようになってるんだっけか。だから、これは懺悔室ではない。
「井内?聞いてるのか?」
「あ、はあ」
「先週一週間、何してたんだ?」
眼鏡が光る。そんなに見つめられたら、罪を告白できないぞ。その間違っているものが、正義のつもりか。
まあ、良い。ここは、偽物の懺悔室だ。始まるのも、偽物の懺悔だ。
「ちょっと体調崩しちゃって……なかなか学校にも来れる状態じゃなかったんです」
「そうなのか?家に連絡させてもらったが、お家の方がお前はずっと家にはいなかったとおっしゃっていたぞ。そんな体調で何処に行ってたんだ?」
「いや……学校に行かないって言いづらくて、母親に。ほら……受験生じゃないですか。だから、勉強の事とかで余計な心配かけたくなかったんですよ」
「そうか。病院にでも行っていたのか?」
「いや、知り合いの家に居させてもらいました。桂の方に親戚が住んでるんです。だから、その人の家で勉強してました」
「勉強してたのなら、学校に来れば良かったのに。授業にもついていけなくなって大変だろう。体調は大丈夫だったのか?」
「いやまあ」
そこで、言葉が止まってしまう。部屋の壁から岡元に視線を移した時に、見えてしまったのだ。先ほどまでとは角度が変わったのか、光っていない眼鏡。そこから見えた、岡元の目。
何と表現すべきか。
すぐに思いつく言葉は、倦怠感。それから、不信感。
ああ、面倒くさいんだな。はなから信じちゃいないんだな。こんな劣等生の言う事など。教室で大人しくしていられない、レールから外れた者の弁解など。
淀んで濁った感情を抱くその目は、正義からは程遠かった。
手をぐっと握りしめる。親指の付け根に爪を立て、痛みを感じるまで力を込める。
「……だって、しんどかったんですよ。確かに体調は悪くて、でも家にはいられなくて、置いて行かれるのがこわいから勉強はしたくて、仕方なかったんですよ。プレッシャーがすごいんですよ!毎日がこわいんですよ!」
こんなぼくを、助けてくれない。助けてくれない癖に、関わるな。
「……そうか」
再び、岡元の眼鏡が光る。
「保健室もあるんだから、今後からそういう時は学校に来なさい。どうしても無理なら、家で休みなさい。とにかく、今回のような事は余計にご家族に心配をかけるのだと、自覚しなさい」
「……」
「分かったか?」
「……はい」
「勉強も、分からなくなったらすぐに先生達に聞きなさい。英語はいつでも見るから。井内は確か……数学が苦手だったかな?なら、山田先生に質問しに行きなさい」
「……」
「この時間ならまだ、一限に間に合うな。途中からになるが、教室に戻りなさい」
「……はい」
ぼくが席を立ち、岡元が席を立った。部屋の電気が消され、もう光らなくなった眼鏡の中は、さっきより分かりづらく、何と表現したら良いか分からなかった。
職員室へ向かう岡元と別れ、一人で教室の方へと戻った。一度外から覗いてみたら、中にいるのは本当にゾンビの集団にしか見えなかった。寒気と吐き気を覚えたが、脳の一部が麻酔がかかっているかのように痺れていたので、ぼくは大人しくゾンビの一員となる為に中へと入った。途中で入ってきたぼくに、ゾンビ達はちらり、ちらりとした視線を送った。