2-⑵ さて、問題。ストーカーです!


   お昼ごはんを食べた。とても美味しかった。
   おなかいっぱいになったので、少し眠い。あくびをすると、目がピリ、と痛んだ。指で涙を掬う。
   次の授業まで、まだ時間がある。何処に行こうか。いつもならこういう時にはすぐに図書館へと向かうのだが、今日は何だか散歩したい気分だ。空はまだ曇っているが、心は晴れやかなのだ。
   ひとまず、中庭を散歩しよう。赤いスカートを揺らしながら、闊歩。ひらりひらり。
   と、正面からクラスメートの女子が二人歩いてくるのに気が付いた。一年次生の頃は良く話した子たちだ。
   向こうも私に気が付いたようだ。こちらを見て、表情を変える。えも言えぬ表情だ。どうしてだろう。……ああ、このスカートか。
   どちらかというと地味なジャンルに分類される二人には、このスカートは少し刺激が強かったのだろう。ごめんね。私はもう、変わってしまったの。私は、お姉さんになったの。軽く手を上げると、二人は軽く頭を下げた。えも言えぬ表情をしたままであった。
あなたたちも変われれば良いね。
   さらに歩いていると、冷たい感触が腕に当たった。雨が再び、降り始めてきたようだ。その時に、朝は持っていた筈の傘を持っていない事に気が付いた。どこだろう。朝の授業の教室に忘れたのか。
   雨が強まってきた。傘を取りに行かなければ。二限の授業があった一号館まで走る。授業の教室は……三階だった。階段を上がる。踊り場。上がる。二階。上がる。踊り場。上がる。足を止める。
   話し声が聞こえてくる。誰かがご飯でも食べているのだろうか。
すぐに、思い出した。この声は、まーくんの声だ!
   まさか、こんなに続けてまーくんに会えるだなんて。声もかっこいい。あの声を近くで聞きたいな。一つの傘に二人入る姿を想像した。傘を持つまーくんが、雨から私を守ってくれる。二人の距離は近く、互いの体温を感じる。そして、私の耳元でまーくんが愛の言葉を囁く。
   ああ、まーくん!
   駆け出そうとした私の足は、すぐさま止まる。たった今聞こえてきたまーくんの話し相手の声にも、聞き覚えがあるのだ。これは……弘菜の声だ。
   「もー、正俊ったら」
   楽しそうに、笑う。二人の笑い声は、何故か私には優しい響きに聞こえなかった。
   「あ、また降り出してきたな」
   「ホントだー。もー、やだぁ。傘ちっちゃいから濡れちゃうんだよね」
   「折り畳みじゃない傘買えよな。ん?ここに傘の忘れもんあるじゃん」
   「あ、ホント。借りちゃおっかなぁ。……ってあれ?これ癒真の傘じゃん」
   「え、そうなんだ。忘れてったんだね。ってか、癒真ちんと言えば、どうだったのよ」
   「あー、あれね。マジでウケるよ。“私、まーくんの事が好き!”って言ってたよ」
   「ぶふぉっ。マジで~?やっぱりねぇ、そんな気がしてたんだよ。何か俺の事好きな女の子って分かっちゃうのよね」
   「私の事も分かったのー?」
   「うんまぁ、それで、お前の魅力に見事に捕まっちゃったかな」
   「もー、正俊ったら」
   笑い声。楽しそうな二人の声は、私を嘲笑っていた。
   身体が、急速に冷え渡る。
   「で、他に何か言ってた?」
   「えっとねー。“弘菜もあたしと一緒にがんばろうね!”とかかな」
   「うわー、何それ。マジ笑えるな。ってかお前さっきから声マネに悪意ありすぎ。まずそこにウケんだけど」
   「“まーくん、だいちゅきちゅきー”」
   「ぐふぉっ、やめろやめろー」
   「これ今後持ちネタにするわ。ってかさ、あんな女の分際で正俊の事好きって言うとか、ちょっと調子乗りすぎよね」
   「まぁな。クソ程に俺の好みじゃないわ。ってか今まで好きとか言ってきた女の中でも最低ランクだわ。合コンの日、結構びびったもん。その後に思ったけどね。ああ、これが所謂、頭数合わせの引き立て役か、って」
   「まさにその通りだわ。色々便利なのよ、あの子」
   「ひでぇ奴だな」
   「アンタもさっきからなかなか言ってるじゃん」
   「ははは」
   「ふふふ。それにしても、またウケるのがあのスカートよね。いやもー、正直目の前にして、いつ突っ込もうか突っ込もうか耐久戦よ?」
   「よし、じゃあ今突っ込んでみ」
   「なになにどーしたのそのスカート。ん?色気づいたの?そうなの?春が来ちゃったの?うんうん、えっとね、ぜんっぜん似合ってねぇんだよ、カーーース。鏡見たか?え?コーディネートって知ってる?何そのだっさいTシャツ。中学生ですか?髪型ものすごい事になってるけど、ブラシ持ってるの?靴下と靴も、中学生ですか?あ、これ二回目だったね。まあ良いや。大事な事は良く伝えた方が良いもんね。そんな中学生クソガキなお前が、何色気づいて足曝け出してんだよってなー!ネタ?ねえ、それネタなの?うんうん、大丈夫。すっっっっっごく面白いよ!あ、でも何よりもウケるのは、その顔面な。目すごい事なってますけどどうしたの?寝不足なの?パンダなの?歌舞伎なの?え、もしかして、それが化粧なの!?ちょっとその辺りの子どもにお絵描きの仕方教わってきたらどうですかー!もう本当にね、本当にアンタのその顔と向き合って笑わずにいるの、大変なんだから、ふ、ふは、あはははははははは」
   響き渡る弘菜の笑い声。まーくんの笑い声も重なる。あはは。はは。なんだこれは。これが弘菜か。弘菜、弘菜は。
   頭が凍りついたようで、思考が上手く働かない。身体も同様に凍りついている。
   弘菜が、弘菜が笑っている。聖母が私を嘲笑う。私の光だったまーくんと共に、声高く笑う。私は心など身体の中にないように、ぼうっとしながら二人の会話を聞いていた。しかし、その会話は、ない筈の心にしっかりと届いている。
   いっそなくなれ。
   いっそなくなれ。
   いっそ、消えてしまいたい。
   どうして私はここにいるんだろう。
   どうして私はこんなんなんだろう。
   私は?
   私の意識は、壁に。
   私の意識は、天井に。
   私の意識は、空中に。
   笑う二人を見つめる。二人は、悪くないよ。二人は、洗練された存在だから。
   私を見つめる。空中の私が、私を見つめる。私が、悪いね。私が、私だから。
   このままふわふわふわ、飛んで行ってしまおうか。それとも、地に沈もうか。誰とも関わらず、誰にも迷惑をかけず、誰からも傷つけられない世界へ、飛ぼう。沈もう。さようなら。私はなんでもない。私は、なんでもない。
   「あ、そろそろ行こっか」
   しっかりと、私の耳に届いた。それがスイッチだったかのように、私は冷たい汗をかく。ぶわぁっと全身に。やばい。二人がここを通る。
   そう考えたのが先か身体が動いたのが先か、とにかく私は転げ落ちるように階段を下りた。ああ、やっぱりこの身体は私のもので、私の意識はここに根付くのだ。ばたばた、飛んで、落ちる。駆け落ちる階段。途中足が滑って転んだが、すぐさま起き上がり、また落ち始める。そうして、外へ飛び出した。駆ける。雨が私の身体を叩く。悔い改めよ。神に背きし思い上がり。罪深き勘違い。
   泥の滑りに足元を掬われ、転ぶ。ぬかるんだ地面に倒れこむ。
   さっきのようには、起き上がれなかった。
   「うあ、うあああああああああああああ」
   大声を上げた。
   涙があふれた。
   身体が痛んだ。
   感情の爆発だ。
   これは、心の断末魔だ。引き裂かれて、ばらばらになってしまうんだ。
   心が消えゆこうとしているのに、どうして身体は生きているんだろう。
   矢の如き雨が絶えず私の全身を叩き続ける、悔い改めよ、悔い改めよ。
   今や私の心には光などは存在しない。あるのは、純真たる絶望のみだ。
 
 
   チャイムが鳴る。二限の授業が終わった。
   周りのゾンビたちが、ノートを閉じ、カバンの中から参考書を取り出す。単語帳を取り出す。ぼくはと云うと、そんな気にもなれなかった。教室ゾンビ復帰には、まだもう少しリハビリは必要なのかもしれない。ぼんやりと、机に広げられたノートを眺める。先ほどの授業の内容が、きっちりと書かれてある。こんなもの、単純作業だ。黒板に書かれた情報をノートに再生するだけの簡単な作業だ。そうして作られたノート。眺めていても、授業内容は思い出せなかった。
   カリカリカリ、シャーペンの音が響く。ペラペラペラ、ページをめくる音。周囲の音がぼくを脅かす。心が揺れる。胸をぐっと押さえた。
   吉留の席を見ると、奴は机に突っ伏して寝ていた。数学の教科書を枕にしている。
   ハッとその時、気が付いた。隣の席を見る。英語の参考書を開きながらも、机の上には数学の教科書をスタンバイ。斜め前の奴。単語帳をめくりながら、数学の教科書をスタンバイ。斜め後ろ。数学の教科書をスタンバイ。
そうだ。月曜の三限は、数学なのだ。
その事を思い出すと共に、チャイムが鳴り、同時に教室のドアがガラン、と開いてハゲ教師が入ってきた。
   一週間ぶりに見る山田は、何も変わっていなくて、うんざりとした。ハゲ頭も、睨みつけるようなギョロ目も、腕に抱えた分厚いファイルも、チャイムと共に入ってくる様子も。
   そして、教卓に立つと共に、大声を上げる。
   「はい、君たちさっさと数学以外のモン仕舞ってください。今からは、数学の授業です。時間は正しく丁寧に使いましょうね」
   山田にそう言われた時には既に、教室ゾンビたちは机の上を数学の授業スタイルにしていた。山田の登場セリフは、いつもの事なのだ。目をつけられたら、非常に厄介。
   ぼくも慌ててノートを仕舞い、数学の教科書とノートを取り出す。だが、その動きが目についてしまったようだ。山田がこちらを見る。ギョロ目。やばい、狙いを定められた。
   「ん?そこでごそごそやってんのは、井内じゃないですか。随分久しぶりですね」
    隣の席の奴がちらり、とこちらを見る。ぼくを憐れんでいるのだろうか。ぼくは息を吐く。あ、これは良く見たら、英語のノートだった。そいつを仕舞い、数学のノートを取り出す。
   「おい、井内。いつまでごそごそやってるんですか。僕の話を聞いていますか?随分とお久しぶりですね、って言ったんですよ」
   「……はぁ、お久しぶりです、ね」
   「一週間も休むなんて、随分と余裕ですね。勉強ははかどりましたか?」
   正確には、一週間まるまる休んでた訳じゃないけどな。先週の月曜の火曜の水曜も、遅くはなったが学校には来た。お前の授業には行かなかったけど。
   「勉強ははかどりましたか?」
   繰り返す山田。
   「はぁ」
   とりあえず、返事をしておく。数学の時間なんじゃないのかよ。時間は正しく丁寧に使え。
   心の中で悪態をつくぼくに、山田は言葉を続けた。何の期待もしていない目で、言った。
   「じゃあ、課題を出してください」
   「か……」
   内臓に冷たいものが流れ込むような心地で、ぼくは机を探る。時間をかけ、そしてプリントの束を出す。眺めてみるが、もちろん白紙だ。いや、問題文はあるのだが、シャーペンの文字は一切ない。
   「どうしたんですか?提出してください」
   「すいません、まだできてません」
   「できてない?」
   「はい、実はこのプリントが机の中に入ってる事にも今気が付いて……。ほら、ぼくずっと休んでたじゃないですか。だから……」
   バァン、と音が響く。山田が教卓を分厚いファイルで殴りつけたようだ。
驚きで一時停止させられてしまった言葉は、再び再生する事はなかった。
   「そんなクソみたいな言い訳は、聞いてません。良いですか?僕が確認したいのは“お前が課題をやってない事”“数学の成績がクソな劣等生な癖に、僕の授業を一週間もサボった事”ですよ」
   山田の目がギョロギョロ、と動く。怒っている証拠だ。
   何人かの教室ゾンビたちが、こちらに視線を送った。ちくしょう。いちいちこっち見るなよ。黙ってカリカリ勉強しとけよ。
   「良いですか、みなさん。今からとても大事な事を話します。まず君たちが知っておかなければならない事。受験は戦いです。はっきりと、勝ち負けが分かれます。勝ち組になりたいですか?なら、今勉強しろ。負け組になりたくないですか?なら、今勉強しろ。このクラスに、劣等生の癖に一週間バカンスを楽しんだ奴がいるな。あいつの休息が羨ましいか?なあに、羨む事など何もない。がんばる君たちの将来は安泰、いくらでもバカンスができる。劣等生の癖にサボった奴は、将来血反吐まみれの生活を送る。ただ、それだけだ。分かりましたか?じゃあ、数学の授業を始めます」
   顔が熱い。全身の血が頭に上り、沸騰する思いだ。なぜ、みんなの前でここまで言われなければならないのだろう。ぼくが劣等生?今までがんばって、がんばってきたぼくが劣等生?劣等生なのか?ルートから外れているのか?
   熱が目頭に集まってきた。教室はというと、ぼくなんてほっといて数学モードに入っている。さっきまで無理やり舞台に立たせておいて、急に部外者扱いか。ちくしょう。ふざけんな。山田は「無駄な時間を使わせやがって」とかぶつくさ呟きながら、黒板に公式を書いている。ふざけんな。
   山田を殴りつけたい、と思った。あの目を二度とギョロつかせられないようにしてやる。みんな驚くだろう。ぼくが突然席を立ち、まっすぐと教卓まで歩き、思いっきり山田の顔面を殴る。殴る。山田は悲鳴を上げて、みっともなく助けを求めるかもしれない。みんなはどうするだろう。山田はあまり好かれていないだろうから、誰も止めないかもしれない。ざああみろ。山田がいつも持ち歩いているファイルを使うのも良いかもしれない。あの分厚いファイルでガツン、だ。それで悲鳴が止まるかもしれない。いい気味だ。そうしたら流石に、誰かが騒ぐかも。山田の代わりに、悲鳴を上げるかも。そうしたら、そいつをファイルでガツン。次に騒いだ奴のガツン。ついでにその隣にいた奴もガツン。ガツン、ガツン。ある程度ゾンビたちを倒せた頃に、岡元が教室に駆けつけるだろう。何してんだ井内、やめなさい。とか言う正義面を、メガネごと吹っ飛ばす。その辺りで宣言しよう。良いかお前ら。この学校はぼくが占拠する。ここに巣食うゾンビ共を、ぼくがみんな退治してやる。助けてやるぞ、お前ら。覚悟しろ。ぼくの手には、散弾銃。ぱららららららら。いい気味だ。辺りを見渡す。もう、ぼくを脅かすものはない。と、教卓辺りで何かが動いている。山田だ。血を流しながら、叫ぶ。「劣等生の癖に!」金属バットで殴りつける。山田は音を立てて崩れ、消え去った。ドア付近で岡元が叫ぶ。「大人しく勉強しろ!」金属バットで殴りつける。岡元は崩れ、塵となった。教室中で叫び声がする。「授業妨害やめろ!」「目障りなんだよ!」「なに学校さぼってんだよ!」「当たり前みたいに遅刻してくんじゃねえ!」「俺たちはがんばってんだよ!」殴る。殴る。殴る。金属バットを振り回す。殴る。殴りつける。みんな消えろ。ぼくだって、ぼくこそが、ずっとこれまでがんばってきたんだ。がんばって、がんばって、がんばってきた。なのに、どうしてだ?なんでなんだよ?どこからか、母親の声がする。「衛の為なの……」金属バットを振る。ちくしょう。ちくしょう。なんでなんだ。誰か、だれかぼくを助けてくれ。お願いだから、助けてくれ。周りで踊るアルファベットを殴り続けた。砕いても、砕いても現れる。涙を流しながら、武器を振り回し続けた。いつしか、金属バットは形を変え、得体のしれないふにゃふにゃとした物となっていた。ぼくは泣きながら、腕を振る。武器はふにゃり、と揺蕩うのみ。アルファベットを砕けない。ゾンビの声がする。迫ってくる。このままでは、押しつぶされてしまう。ぼくは、役に立たない武器を放り捨てた。悲鳴を上げる。ぼくには、なにもない。ぼくには、なにもないのか?
   チャイムが、鳴り響いた。山田が教室から出ていく。結局ぼくは、山田を殴る事はおろか、この場から動く事すらできなかった。そんなものだ。
机の上を見ると、知らない間にプリントの束があった。どうやら、今回の授業で配られた課題らしい。
   「木曜日までに提出、だってよ」席の前に吉留が立っている。「大丈夫か?」
   大丈夫か。大丈夫ではない。
   ぼくは立ち上がる。頭がくらり、とした。
   「おい、衛?」
   「そうだ、ぼくも手に入れたものがあるんだ……なにも、ないわけじゃない」
   カバンを手に取り、机の上にあった筆箱を突っ込む。紙の束はいらない。
   「衛!」
   「体調が悪いから、早退した……岡元に何か聞かれたら、そう言っといてくれ」
   そうして、走り出した。吉留の声も、教室ゾンビたちの目線も脳には伝えない。こんなところにはいられない。
   早く会いに行こう。ぼくの果実に。
 
 
   みじめな私は、ふらふら歩く。
   身体に力が入らない、意識は朦朧としている。
   それでも、ぜんまいが巻かれた人形のようにふらふらと歩き続けていた。それは目的も、意思もない動きだったが。
   雨に打たれ続けて、身体が冷たい。だが、別段気にならなかった。どうせ風呂に入ったり、暖かい服を着たりしても、この心臓は冷えたままであろう。ああ。私の心が再び動き出すことはあるのだろうか。再び脈打ち、全身に力を与えることなど、あるのだろうか。
   ……考えるまでも、ない事だ。
   自分の身体を見ると、泥まみれだった。私に良く似合っている。花も茶色く汚れ、二度と日の下で咲き誇る事はないだろう。
   水が髪から滴り、顔を濡らす。目がピリピリと痛み続ける。ようやく、気が付いた。化粧品が侵入し、痛みを引き起こしているのだ。なんだ、滑稽だなあ。雨と涙と汗と鼻水と化粧品とでぐちゃぐちゃになった私の顔は、相当酷いものだろう。化け物よ、こんにちは。
   時折すれ違う人が、私に奇異な眼差しを送る。ごめんなさい。こんなものを見せて、ごめんなさい。すぐに、どっか行きますから。
   あれ、私は何処へ行くのだろう。地獄だろうか。
   みじめな私は、ふらふら歩く。
身体に力が入らない、意識が朦朧としながら、頭の隅でくだらない事を考え続ける。
   ぜんまいが巻かれた人形は、どこか異常を抱えていた。じきに壊れ、動かなくなるだろう。今は、目的も意思もなくふらふらと歩く。
   雨に打たれ続け、身体が冷たい。ふと、顔を上げると、視界に入った。くっついて歩く男女。脳がぼんやりと認識した。弘菜とまーくんだ。まーくんのものなのか、彼が紺色の傘を持ち、弘菜の肩を抱いて彼女を雨から守る。顔を寄せ合う二人は笑って、とても幸せそう。
   光の国の住人の二人は私などには気が付かず、通り過ぎてしまった。
   なんだ、なにも思わないや。やっぱり、心が死んでしまったんだな。
   水の強い音がする。雨とは別の物だ。音の方へ進むと、川があった。
   凄まじい、様子だった。降り注ぐ雨で増水したようで荒れ狂い、薄茶色い水が色んな物を流している。これはもしや、コキュートスだろうか。ならば、私はここへ流れるべきだろう。私は何を裏切ったか。私は、弘菜を裏切った。私は、周りの人を裏切った。私は、私を裏切った。思い上がりが、自身を偽ってすみませんでした。
   私は、橋の欄干に足を掛けた。
   「やめろ!」
   響く声。麻痺した脳は状況に追いつけない。何者かが、私の身体を掴み、引っ張った。強い力によって、私は地面に倒れこむ。相手を視界で確認する。ブレザー。高校生だ。
   「死ぬな!なんでだよ!アンタが死んでどうする!やめろ!生きろ!」
   高校生は訳が分からない事を叫びながら、私の身体を揺らす。なんだ。どうした。この状況はなんなんだ。この人は誰なんだ。どうして、私なんかに生きろと言うのだろう。
   理解不能な状況な中、私は目撃する。高校生は私に向かって叫びながら、泣いていた。降りしきる雨の中、私と同じように傘もささず、泥と雨と涙にまみれている。
   「頼むから、死なないでくれよ……。アンタがいなくなったら、もう終わりなんだ」
   「……どうして?」
得体の知れない高校生の涙は、何故か私の心へと届いた。